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千葉地方裁判所 昭和53年(つ)2号 決定

主文

本件各請求を棄却する。

理由

第一本件被疑事実及び請求の趣旨

一  被疑事実

被疑者浅沼清太郎は警察庁長官として警察法第一六条第二項により警察庁の所掌事務である警備警察に関し、千葉県警察を指揮監督する職務を行っていたもの、同勝田俊男は関東管区警察局長として同法第三一条第一項により関東管区警察局の所掌事務について千葉県警察を指揮監督する職務を行っていたものであり、同中村安雄は千葉県警察本部長として、同山形基夫は同警察本部警備部参事官兼現場指揮者として、同海野卓二は同警察本部警備部第二機動隊長として、警察官氏名不詳者は新型ガス銃部隊員として、新東京国際空港公団による昭和五二年五月六日の千葉県山武郡芝山町所在の岩山大鉄塔・小鉄塔除去の抜き打ち仮処分執行後の事態に備えるため警備実施の職務を行っていたものであるが、被疑者中村安雄・同山形基夫は、同浅沼清太郎・同勝田俊男の承認のもとに同人らと共謀のうえ、三里塚空港建設反対の農民・学生・労働者・市民を、大楯・小楯・警棒・ヘルメット・出動服着用の完全装備の機動隊員や放水銃・新型旧型のガス銃によって徹底的に弾圧することを企て、前同年同月八日頃、催涙ガス銃はこれを水平に発射すれば人を殺傷する能力があることを認識し、かつ至近距離で水平発射した場合には死者が発生することを予見しながら、あえて警察官職務執行法第七条の事由の有無を顧慮せず、催涙ガス銃を水平発射するように指揮下の多数の警察官に指示し、もってその多数の警察官とも共謀のうえ、警察官氏名不詳者において、前同日午前一一時二五分から三〇分頃、前同県山武郡芝山町大里七〇番地路上において、折から警察官の違法過剰警備による負傷者の救護の任に当っていた東山薫(当時二七年)が、前同番地斉藤晴方敷地出入口付近において、警察官の救護所への乱入を阻止すべくスクラムを組んでいたところ、もし右東山の頭部にガス弾が命中したときは死の結果を惹起することを予見しながら、あえて至近距離から同人の右後頭部目がけて新型催涙ガス銃を水平発射し、新型催涙ガス弾を同人の右後頭部に命中させる暴行を加え、よって同人に対し、右後頭部頭蓋骨陥没骨折・脳挫傷および開放性脳損傷の傷害を負わせ、前同月一〇日午後一〇時一四分、成田市飯田町九〇番地一所在の成田赤十字病院において死亡させ、もって殺害したものである。

二  請求の趣旨

請求人らは、被疑者らの前記被疑事実の特別公務員暴行陵虐致死・殺人の所為は刑法第一九五条第一項・第一九六条・第一九九条・第六〇条に該当するものとして、千葉地方検察庁検察官に告発(請求人北原鉱治・第一号事件)告訴(請求人東山博・東山恵津・第二号事件)したところ、同庁検察官は被疑者らを不起訴処分にしたが、右処分には不服があるので、刑事訴訟法第二六二条に則り事件を裁判所の審判に付することを請求する。

第二本件事案の経過及び概要

検察官より送付を受けた一件記録及び証拠物並びに当裁判所の蒐集・取調べた証拠(以下単に証拠と略称)によると、次の様な事実が認められる。

一(一)  新東京国際空港公団(以下空港公団と略称)は、三里塚芝山連合空港反対同盟(以下反対同盟と略称)が、新東京国際空港四、〇〇〇米滑走路南側の進入区域内である千葉県山武郡芝山町岩山字金垣一、八八二番地に制限高度を超えて建設した高さ三〇・八二米の鉄塔一基(通称第一鉄塔)及び同様同町岩山字押堀一、八九八番地九に建設した高さ六二・二六米の鉄塔一基(通称第二鉄塔)の仮除去を目的とする仮処分命令の申請を千葉地方裁判所になし(債権者空港公団・債務者反対同盟、同裁判所昭和五二年(ヨ)第一八五号妨害物除去仮処分申請事件)、昭和五二年五月四日、同裁判所から右二基の鉄塔を仮に適当な方法で除去することができる旨の仮処分決定を得、これに基づく申立により千葉地方裁判所執行官は、昭和五二年五月六日午前八時三八分、その執行現場に臨場し、午前一一時迄に右第二鉄塔を、午前一一時四二分迄に第一鉄塔を、それぞれ除去する等し、同日午後零時一〇分迄にその執行を終了した。

(二)  右執行に際して、前記執行官は債務者である反対同盟の構成員やその支援者らから、妨害・抵抗を受ける虞れがあるとして、(当時の)民事訴訟法第五三六条第二項に基づき警察の援助を右地域を管轄する千葉県警察成東警察署長に求めていたものであるが、千葉県警察本部も又前記二基の鉄塔が空港建設に対する反対運動の象徴であることや過去の事例に徴し、右の執行に対しては、執行現場やその周辺等において、妨害行動や抗議行動として、右執行に従事する者やその警備にあたる警察官並びに空港関連施設等に対しての激しい集団違法行為が多発する虞れが強いものと判断し、これに対する警戒警備のため、五月六日午前三時、新東京国際空港警備室に、被疑者である千葉県警察本部長中村安雄を本部長・同警察本部飯泉警務部長を副本部長・同警察本部田口警備部長を副本部長兼警備幕僚長・被疑者である同警察本部警備部参事官山形基夫を警備幕僚長付とするなどの警備本部を設け、千葉県警察本部警備部第一・第二各機動隊、同警察管区機動隊、同警察方面機動隊を始め、千葉県警察からの要請に基づいて応援派遣された他都府県警察の警察部隊をもって警戒警備にあたった。

(三)  しかし、右五月六日には、中核派・第四インター派等の集団が前記執行場所の周辺で警戒・警備にあたっていた警察部隊に対して石や火炎びんを投擲し竹竿等で突きかかる等の攻撃を加えたり、新東京国際空港敷地内に侵入するなどの違法行為におよび、翌五月七日にも、前記執行場所周辺で第四インター派等の集団が警戒・警備にあたっていた警察部隊に対して石や火炎びんを投擲するなどの攻撃を加えるなどの違法行為があったものの、いずれも当初危惧した様な激しい大規模な集団違法行為は発生しないままに経過したが、前記五月六日夕刻、反対同盟の北原鉱治事務局長が五月八日に成田市三里塚の三里塚第一公園で前記鉄塔撤去に対する抗議集会を開催する旨を発表すると共に右公園を会場として使用する手続をすすめ、又五月七日には、反対同盟が翌五月八日に新東京国際空港第五ゲート前の東西にはしる国道二九六号線道路を同ゲートから五〇米程東にすすんだ付近の北側奥にある山武郡芝山町大里一八番地三(千代田地区)所在の山武農業協同組合千代田事業所(以下農協千代田支所と略称)脇広場で前同様の抗議集会を開催することを決定した旨の情報を得たため、前記警備本部は、右五月八日には最も激しい大規模な集団違法行為が発生する虞れがあるものと判断し、前記三里塚第一公園付近及び農協千代田支所付近の二ヶ所を重点に警戒・警備態勢をとることとなった。

(四)  ところが、五月八日になると、右三里塚第一公園には集まる者が殆んどない状況であるのに比し、右農協千代田支所脇広場には早朝から中核派等の支援の者らが続々集まり始め、時折集団で同所から突出して、前記第五ゲート前付近で警戒・警備にあたっていた警察部隊に対し石や火炎びんを投擲する等の攻撃を加え、あるいは無届デモをするなどしたため、前記警備本部は、当日の抗議集会は右農協千代田支所脇広場で開かれ、従って集団違法行為も同所付近で発生する虞れがあるものと判断し、急遽、警戒・警備の重点を前記第五ゲート前方面にしぼることとなり、同日午前九時過頃、前記警備本部警備幕僚長付山形基夫警備部参事官を、右第五ゲート前現場の統括指揮官に指名した。

(五)  右山形基夫警備部参事官は、同日午前一〇時頃、右第五ゲート付近に到着し、その頃前記警備本部からの指示により同人の統括指揮下に入った千葉県警察本部警備部第二機動隊・千葉県警察管区機動隊・警視庁第三・第六各機動隊・近畿管区機動隊満原・坂本・谷田各大隊・埼玉県警察本部警備部機動隊を指揮し、そのうちの千葉県警察本部警備部第二機動隊・警視庁第三機動隊・近畿管区機動隊坂本・満原・谷田各大隊・埼玉県警察本部警備部機動隊を右第五ゲート及びその前付近に配置し、集団違法行為に対する警戒・警備並びに前記の様な違法行為にでた集団の規制にあたらせた。

二(一)  他方、五月八日、前記鉄塔撤去に対する抗議行動にでたいわゆる支援集団のうち、前記芝山町坂志岡地区にある坂志岡団結小屋等に集結したべ平連系ノンセクトグループ集団五〇名乃至七〇名位は、一部は黒色のヘルメットその余は赤色のヘルメットを着用して、大部分の者がハンカチ大の赤旗をつけた長さ二米の竹竿を持ち、隊列を組み、午前一〇時過頃同所を出発し、前記第五ゲートの東方約六五〇米の横宮十字路を左折し前記第五ゲート方向に向うアスファルト舗装巾員五・三米乃至六米の国道二九六号線道路を二〇〇米程西進し、午前一〇時二五分頃、同国道南側にある同町大里六七番地一付近の空地(土木工事用ヒューム管等が置かれているため資材置場と呼ばれていた)に入ったが、その後、その西側に接する同町大里六一番地所在の千代田観光の車庫(右第五ゲートから約四二〇米東方)に移動し結局そこで待機する様な状態で滞留していた。

又同じく前記同町朝倉地区にある朝倉団結小屋等に集結した第四インター派の集団四〇〇名乃至五〇〇名は、警察部隊の警戒・警備のための阻止線を突破し、前記農協千代田支所脇広場で開催される抗議集会に参加し、第五ゲートから新東京国際空港内に突入することを企て、火炎びんの投擲による攻撃を任務とする第一中隊・鉄パイプでの殴打刺突による攻撃を任務とする第二中隊・投石による攻撃を任務とする第三中隊で編成された第一大隊、右投石による攻撃を補助支援する第二大隊、その他の第三大隊を組織し、右の団結小屋付近広場で集会を開いて気勢をあげたうえ、黒の鎌と槌を組合せたマークを描いた赤色ヘルメットをかぶり、右第一大隊を先頭にし、投石用砕石を詰めた肥料袋等を積載した小型貨物自動車一台、火炎びん・鉄パイプ・ガソリン入りポリ容器などを積載した二台の中古普通乗用車をはさみ、第二大隊・第三大隊がこれに続き、午前一〇時過頃同所を出発し、午前一〇時五〇分頃、前記横宮十字路付近で、右各車両から、第一大隊の第一中隊は火炎びんを、同第二中隊は鉄パイプを、同第三中隊及び第二大隊は投石用砕石を、それぞれ手にし、以後右小型貨物自動車は右集団と併進しつつ投石用砕石を詰めた肥料袋等を路上に落して砕石をばらまき、前記中古乗用自動車二台はいずれも集団の者に押されつつ、右集団と共に右横宮十字路を経て国道二九六号線道路を西進し、前記坂志岡団結小屋を出発した集団が待機・滞留している千代田観光車庫前を通過し、第五ゲート方向にむかった。

(二)  これに対し、前記の警察部隊を統括指揮し、第五ゲート及びその周辺の警戒・警備・規制にあたっていた前記山形基夫警備部参事官は、午前一〇時一〇分頃、前記警備本部から「第四インター派の集団が投石用の石を積載した貨物自動車のほか二台の車を伴い朝倉の団結小屋を出発した」旨の情報を得、同集団は抗議集会の会場である前記農協千代田支所脇広場に向うものと考え、とりあえず、国道二九六号線道路及びその脇道で検問中の近畿管区機動隊満原・谷田各大隊に対し、「第四インターの集団が集会場に投石用の石を搬入する虞れがあるので、対象の動向に注意せよ」と指示したが、午前一〇時五〇分頃に至り「第四インターの集団が横宮十字路付近に到着し、同所で火炎びん・鉄パイプを配付し、投石用の石を降ろしている」旨の情報が入り、前記警備本部から「第四インターを検問し、投石用の石と車両を押収せよ」との指示を受けたため、午前一〇時五四分頃、千葉県警察本部警備部第二機動隊並びに近畿管区機動隊満原大隊に対し、「第四インターの集団を規制し投石用の石等を押収せよ」との旨指揮し、その結果午前一一時頃迄に被疑者である海野卓二を隊長とする千葉県警察本部警備部第二機動隊は、第一中隊(五二名)を前記農協千代田支所脇広場での集会に対する警戒・警備・規制に残し、第二中隊(五一名)・第三中隊(五九名)が放水車を伴い、第五ゲート前から国道二九六号線道路を東に二五〇米程すすんだ同国道南側にある同町大里一六番地六所在の大竹石油千代田給油所の東側に隣接する杉林前にすすみ、放水車を中央にし、その北側に第三中隊・南側に第二中隊を配置して阻止線を張り、その後方、右給油所の第五ゲート寄りから右給油所裏側を通り東南方向にのび前記資材置場の南側を経て坂志岡地区にいたる農道が接する付近に、同様その第一中隊(一〇六名)を前記農協千代田支所脇広場での集会の警戒・警備・規制に残した近畿管区機動隊満原大隊の第二中隊(一〇二名)・第三中隊(一〇五名)が配備につき、右千葉県警察本部警備部第二機動隊の支援にあたった。

三(一)  かかる結果、右千葉県警察本部警備部第二機動隊らの警察部隊と前記第四インター派集団とは、午前一一時四分頃、国道二九六号線道路の右杉林前付近で対峙するにいたったところ、右第四インター派集団はガソリン入りポリ容器等を積載した無人の前記中古普通乗用車二台を右警察部隊にむけて発進させて突入せしめるとともに、火炎びんの投擲・投石並びに鉄パイプをもっての殴打刺突等の攻撃を開始し、火炎びんの投擲により右中古普通乗用車を炎上せしめる等し、これに対し警察部隊は大楯をもって防禦しつつ放水・ガス筒(通称ガス弾・以下同じ)の発射によりこれを規制し検挙しようとしたが、右第四インター派集団の攻撃は極めて熾烈なもので警察部隊に負傷者が続出したのみならず、劇薬の入ったビニール袋も投擲されこれにより呼吸困難となる隊員も多数発生し、加えて放水車も又火炎びんの投擲によりボンネット付近が燃えあがる等したため、その前面にいた千葉県警察本部警備部第二機動隊第二中隊・第三中隊員は右放水車の後方への後退を余儀なくされ、前記海野卓二第二機動隊長の命令により同大隊の第一中隊が応援にかけつけたもののなお第四インター派集団の攻撃を規制することができず、前記大竹石油千代田給油所裏の農道を通って進行して来た第四インター派集団の一部及び前記千代田観光車庫から前記資材置場を経て右農道にでて同様に進行してきたべ平連系ノンセクトグループ集団ら合計一五〇名乃至二〇〇名の規制にむかった近畿管区機動隊満原大隊の第二中隊・第三中隊も又右同様の激しい攻撃を受けガス筒による規制をこころみたが結局国道二九六号線道路迄後退せしめられ、警察部隊は前記集団の規制・検挙どころか隊員の生命・身体が危殆に瀕する状態にたちいたった。かかる状況のため、現場の統括指揮官である前記山形基夫警備部参事官は、当時前記仮処分執行現場付近で警戒・警備にあたっていた千葉県警察本部警備部第一機動隊に対し、ガス筒発射器(通称ガス銃・以下同じ)を持った部隊の支援を要請し、次いで国道上の右第四インター派集団を側面から規制するため前記第五ゲート付近で警戒・警備についていた埼玉県警察本部警備部機動隊に対し右大竹石油千代田給油所裏の農道を通り第四インター派集団の側面に進出すべきことを指令した。これにより右埼玉県警察本部警備部機動隊は右農道に入り途中近畿管区機動隊満原大隊の第二中隊・第三中隊を追い越して前記資材置場南側方向に進出し始め、又前記要請により派遣された千葉県警察本部警備部第一機動隊第三中隊第一小隊(二七名)もガス筒発射器一二丁を持って応援に到着し、国道二九六号線道路上の警察部隊の前面に出てガス筒を発射するなどして規制に加わったため、ようやく午前一一時二〇分頃から右国道上の第四インター派集団はなお、投石等を繰返しながらも、じりじりと後退を始めるにいたった。

(二)  これに応じて、右国道二九六号線道路の千葉県警察本部警備部第二機動隊及び同第一機動隊第三中隊第一小隊は、これを規制・検挙すべく、同様じりじり前進を始め、午前一一時二五、六分頃、右国道上の第四インター派集団は前記資材置場前付近迄後退して、前記農道を進行してくる埼玉県警察本部警備部機動隊を認めるや右資材置場にまでひろがり、右農道を通って後退して来ていた同派の集団の一部やべ平連系ノンセクトグループ集団らと共に、右資材置場に進出して来た右埼玉県警察本部警備部機動隊らに対し激しく投石し、あるいはコーラびんやビニール袋に入った劇薬を投擲するなどの攻撃を加えたが、同機動隊らは楯で投石を防ぎガス筒を発射するなどして規制・検挙しつつ国道二九六号線道路方向に後退する右集団の者達を追って前進した。他方右国道二九六号線道路上やその付近にいた右第四インター派集団の者らも、右国道を東進して来る千葉県警察本部警備部第二機動隊らの警察部隊に対し、火炎びんを投擲し激しく投石するなどの攻撃を加えたが、右警察部隊もガス筒を発射するなどしてこれを制圧しつつ前進した。かかる結果右第四インター派集団らは資材置場を南側から前進してくる警察部隊と右国道二九六号線道路を東進して来る警察部隊とに挾撃されることをさけるため、投石などを続けながらも午前一一時二六、七分頃、その一部は右資材置場から東方の植木畑などを通って芝山町大里七〇番地斉藤晴方敷地に逃げ込み、その余の大部分が右資材置場前の国道二九六号線道路上を東方に後退した。

(三)  そこで、資材置場から前進してきた前記埼玉県警察本部警備部機動隊第一中隊(五三名)・第二中隊(五一名)・第三中隊(五四名)は、第一中隊・第二中隊を先頭にしてこれを追跡し、国道二九六号線道路上に出て前記斉藤晴方の国道側出入口西端付近迄進んだところ、同出入口東端付近迄後退した前記第四インター派集団らは態勢を立て直し、午前一一時二七分頃から鉄パイプ等を持った梯団を前面にして警察部隊に襲いかかり、鉄パイプ等で激しく殴打・刺突し、おびただしい数の石を投げつけたのみならず、火炎びんや劇薬入りのびんやビニール袋をも投擲する等の苛烈な攻撃を加えてきたため、右警察部隊は大楯で防ぎつつガス筒を発射してこれを制圧しようとしたもののかなわず、かえって隊員の生命・身体が危険な状況となって撃退される有り様で国道二九六号線道路上を右斉藤晴方西側の杉林の西端付近迄後退したが、折から右国道上を東進して来た千葉県警察本部警備部第二機動隊らの警察部隊や放水車なども右杉林西端付近に到着して合流し、結局警察部隊は二〇米程の距離を置いて斉藤晴方出入口東端付近に蝟集する第四インター派集団らと対峙するにいたったが、右第四インター派集団らは更に投石・火炎びん投擲などの攻撃を加えて来たため、午前一一時二八分頃、右放水車が約一〇秒間放水したものの、右集団らがなおも投石を続けるためガス筒発射器を持った隊員を放水車の前に前進せしめてガス筒を発射してこれを制圧したうえ、右警察部隊は、同集団らを規制・検挙すべく、(更に、右集団の後方にまわるべく再び前記農道にもどり坂志岡方向にむかった埼玉県警察本部警備部機動隊第二中隊・第三中隊の隊員らを除き、)後記の様に斉藤晴方出入口から右国道上に進出して来た埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊と共に右国道あるいは右国道北側の芝山町香山新田九番地宮野湛方敷地などを通り東方にむかって前進した。

(四)  他方前記資材置場に入り規制・検挙にあたった埼玉県警察本部警備部機動隊の第四中隊(五八名)は、右資材置場の東側に位置する同町大里七〇番地斉藤晴方敷地内に逃げ込みそこから投石などを続けていた第四インター派集団らの一部を追跡し、杉や雑木林と植木畑の間を通って、午前一一時二七分頃右敷地内の物置・車庫・肥料置場などに使用している簡易建物の西側及び南側付近に進出したが、その付近で「ここは野戦病院だから出て行け」等の旨の抗議を受け、現に右建物内の通路に敷かれたむしろに横になっている者も認められたため、その小屋の西側をまわって北側の同人方の中庭にはいり、午前一一時二八、九分頃、同敷地北側国道二九六号線道路への出入口から右国道に出ようとしたが、当時同所付近の国道上は前述の様に、右出入口東側にいる第四インター派集団らが右斉藤晴方西側杉林付近迄後退していた警察部隊に対し激しい投石を続けており又右警察部隊からも右第四インター派集団らに対しガス筒を発射している状態であったため、一時右出入口付近で待機し、右集団の投石が弱まったのに乗じて国道上に進出し、折から前記の如く前進して来た千葉県警察本部警備部第二機動隊らと共に規制・検挙のため右国道を東方にむかって前進した。

(五)  右警察部隊の前進にともない後退した第四インター派集団らは、午前一一時三〇分頃、前記の横宮十字路付近に蝟集し、警察部隊に対し、なおも投石等の攻撃を加えていたものの、警察部隊のガス筒による制圧や追跡を受け、結局同十字路から、あるいは南方坂志岡地区方向に、あるいは北方国鉄専用道路方向に、投石を続けながらも後退・逃走し、これを追って、主として千葉県警察本部警備部第二機動隊及び近畿管区機動隊満原大隊第三中隊は北方に逃走した集団を、埼玉県警察本部警備部機動隊第一中隊・第四中隊は南方に後退した集団を追って午前一一時四〇分頃迄規制・検挙活動を続けた。

四  東山薫は、右五月八日午前一一時〇四分頃から一一時四〇分頃迄の間の、前記国道二九六号線道路を中心とする第四インター派やべ平連系ノンセクトグループなどの集団による兇器準備集合・火炎びん使用等の処罰に関する法律違反・公務執行妨害・傷害等事犯とその規制・制圧の過程で受傷し、反対同盟やその支援団体らが前記斉藤晴方に当日の救護所として設けていた臨時野戦病院に運び込まれ、同所で清水陽一医師の簡単な診察を受けた後同医師の指示で大島英寛の運転する自動車で午前一一時五五分頃成田市飯田町九〇番地一所在の成田赤十字病院救急室に搬入され、同月一〇日午後一〇時一四分頃、右病院において、右頭頂部挫裂創・頭蓋骨陥凹骨折に基づく脳障害(脳挫傷・脳挫滅)により死亡するにいたったものである。

第三東山薫の受傷の場所・時刻

一  そこで、まず東山薫が受傷した場所について検討することとする。

(一)  前記一件記録のうちの関係各証拠によれば、

(1) 東山薫は、昭和四六年三月頃のいわゆる第一次代執行事件の頃、新東京国際空港建設に対する反対運動を支援するため現地入りをし、以後べ平連系ノンセクトグループの前記坂志岡団結小屋に居住し、いわゆる援農活動を行ないつつ右の反対運動に加わり、昭和四九年三月頃からは大和自動車株式会社に入社し、本件当時は東京都江東区猿江二丁目一六番二七号所在の同社本社営業所の自動車運転手として稼働するかたわら右団結小屋の中心的存在として右反対運動に従事していた。

(2) そして前記五月八日は、午前一〇時頃、前記坂志岡団結小屋付近の田圃道で、近くに居住している反対同盟員の斉藤常次と「今日は小屋の当番だ」等雑談をして別れ、その間の行動は明らかではないが、その後坂志岡バス停留所付近から通りかかった斉藤晴の長男で反対同盟員である斉藤明の運転する貨物自動車に同乗して前記斉藤晴方まで赴き、そこから徒歩で国道二九六号線道路を第五ゲート方向にむかい、前記千代田観光前付近で情況を監視する等して情報収集にあたりさらに前記大竹石油千代田給油所手前の第五ゲートより東方約三〇〇米位の距離にある大竹商店前付近迄赴いて第五ゲート方向の警察部隊の様子を窺って引返した後、前述の様に坂志岡団結小屋を出発し、折から前記資材置場付近に滞留していたノンセクトグループ集団のところにとどまっていたが、その後、同じ坂志岡団結小屋に常駐していた山口義人の知らせでかねてから見知っている情報隊吉川支隊長吉川祐雄に気付き、右国道二九六号線道路の前記千代田観光と大竹石油千代田給油所のほぼ中間付近に移動していた同人のところに赴き、同人と昭和四八年一〇月二九日に発生した機動隊員による前記山口義人に対する暴行・傷害事件に関して押問答を繰返す等し、その状況を見てそこに来た同隊々員木川利秋とも揶揄的問答をしたのち、午前一一時に近い頃再び前記千代田観光前付近にもどり、その後右千代田観光の西斜め向い側芝山町大里六七番地三にある芝山タクシー前付近路上で、前述の様に第五ゲート方向にすすんで行った第四インター派集団が前記大竹石油千代田給油所手前杉林付近で警察部隊と衝突している状況を眺めながら、前記の斉藤明及びその弟で同じく反対同盟員の斉藤優同じく反対同盟員である寺内金一・並木幸雄さらに反対同盟員で前記斉藤晴方に設けられた臨時野戦病院と呼ばれる当日の救護所の反対同盟側の責任者である笹川己三夫などと言葉をかわしていたが、しばらくして右笹川己三夫は衝突している集団から後退して来た負傷者を介護しながら右国道二九六号線道路を右斉藤晴方におもむき、また警察部隊の発射するガス筒の催涙ガスがその場に流れて来たため右斉藤優は同様右道路を自宅に戻り、斉藤明・寺内金一・並木幸雄は前記資材置場に移り、いずれも東山薫と別れたことが認められる。

しかしながら、当日右の様に東山薫と出会った者らの同人の服装についての供述は、必ずしも一様ではない。即ち、前記斉藤常次は前述の際東山薫は薄土色のコートを着て褪せた薄水色のジーパンをはいていたが履物は靴ではなく眼鏡はかけていたが頭には何もかぶっていなかったといい、前記斉藤明は前述の際東山薫は薄茶色の上衣を着てはげた薄水色のジーパンをはき頭には何もつけていなかったといい、前記寺内金一によると前述の際東山薫はヘルメットはつけていなかったが頭にタオルをかぶっていたかどうかは記憶にない、ジャケット風の上衣をつけジーパンをはいていたと思うというにあり、前記並木幸雄は前述の際東山薫はジャンバー様のものを着てはげた様なジーパンをはいていたが頭はボサボサのままで何もつけていなかった様に思うというものであり、また前記斉藤優は東山薫は援農の際などにはタオルや手拭をいわゆる姉さんかぶりにしていたが、前述の際ははげた様な色のジーパンをはいて黒ぶちの眼鏡をかけ頭はボサボサのままでヘルメットもつけておらず手拭などはかぶっていなかったし首にも巻いていなかったといい、前記笹川己三夫によれば前述の際の東山薫の上衣やズボン等については記憶がないが頭にはヘルメットも手拭もかぶっていなかったというものであるが、前記吉川祐雄は東山薫の上衣やズボンについては特に記憶していないがその頭には白いタオルをふわりとかぶり後ろで軽く結ぶいわゆる姉さんかぶりにしていたといい、前記木川利秋も前述の際の東山薫の着衣・履物は記憶していないが、比較的太い縁の眼鏡をかけ白い汚れたタオルをいわゆる姉さんかぶりにしてそのタオルの下から割に長めの油気のない髪がはみ出していたというもので、結局、その服装については、いずれも色あせた薄茶色又は薄土色の上衣を着て薄水色のジーパンをはいていたものと認められるものの東山薫が頭部にタオル又は手拭をかぶっていたか否かについては相違があるところである。

なお、右の者らが東山薫と前述の様に出会った際と程近い前後の同人の行動に関連し、東山薫が写っているのではないかと思われる写真に、①大阪府警察茨木署巡査村松文夫が右五月八日午前一〇時五〇分頃山武郡芝山町大里一五番地で撮影したNo.18―34―4写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その2・写真集(5)ガソリンスタンド付近の状況No.17写真、写真集(13)東山薫行動写真集No.13下段写真)、②千葉県警察本部総務部装備課警部徳久国夫がヘリコプターに同乗し右五月八日午前一一時〇一分頃山武郡芝山町大里六一番地付近路上を上空から撮影した一本目No.1及びNo.2写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その2・写真集(4)No.5乃至No.8写真、写真集(13)東山薫行動写真集No.8及び9写真)、③埼玉県警察本部警備部機動隊巡査小原善行が右五月八日午前一一時二七分頃山武郡芝山町大里六七番地一所在の資材置場で撮影したNo.9―17―7写真(写真集(12)現場参考写真集No.3写真・写真集(13)東山薫行動写真集No.12写真及びNo.13上段の写真)がある。そして、右①写真の、前記大竹商店前付近で国道二九六号線道路を東方から接近して来る竹竿様のものをもっている集団の方を眺めている、頭に白いタオル又は手拭をかぶった上半身の後姿の人物については、当時東山薫が勤務していた大和自動車株式会社の営業部長関龍之助は該人物は東山薫に似ている旨述べ、前記吉川祐雄は全体的な状況からみて同人らと前述の様な押問答等をした直後の写真と判断され東山薫がこの地点に位置しても不審ではないが東山薫とは断定し難い旨述べ、前記木川利秋は頭のタオルの状態が東山薫に似ている旨述べているところであり、右②写真の、前記千代田観光の車庫の道路際に立って道路上を眺めている頭にタオル又は手拭をかぶって後ろで結んでいる人物については、前記吉川祐雄は頭の白いタオルの格好に特徴がありそのかぶり方は東山薫のそれに間違いないので該人物は東山薫と思われる旨述べ、前記木川利秋も前述の様に東山薫と言葉をかわした時の同人のタオルのかぶり方からみて右各写真の右人物は東山薫と思われる旨述べ、前記斉藤優は該人物の体付きと着ている洋服は東山薫に似ており同人は援農の時などよくタオルや手拭で姉さんかぶりをしていたが、右五月八日当日同人が姉さんかぶりをしていた姿を見ていないので、該人物が東山薫とすれば私が芝山タクシー前路上に行く前の写真と思われる旨述べ、請求人の一人で東山薫の実母である東山恵津は上着やズボンからみて該人物は東山薫らしいと思われるがはっきりはわからない旨述べているものであり、右③写真の、資材置場で埼玉県警察本部警備部機動隊に、規制・追跡されて投石しつつ後退している第四インター派集団らの中のほぼ東方斉藤晴方敷地方向をむいて歩いている無帽やや長髪で襟元にタオル又は手拭様のものをまいている人物について、右東山恵津は毛髪の長さなどからみて東山薫の様に思われるがはっきりしない旨述べているところであり、右の各供述と押収にかかる東山薫が受傷時着用していたものと認められるサファリコートの色や形態及び後記(二)で述べるところを併せ考えると、右写真はいずれも(特に右②③写真については)それらに写っている前述の人物が東山薫である可能性が強いものと思われるが、右供述以外にこれに関連する直接の証拠はないので、それと確定し得ず、又それがいかなる行動の際のものであったかも明らかになし得ないところであり、結局前述の様に寺内金一らと別れたのち後記(三)記載の場所にいたるまでの間の東山薫の行動は確定し得ない。

請求人らは、(その始めは明らかではないが)東山薫は、当日の救護所として前記斉藤晴方に設けられた臨時野戦病院で負傷者の救護の任務に当っていた旨主張し、森山太一の検察官に対する昭和五二年五月二五日付供述調書によれば、同人が芝山町朝倉地区にあるいわゆる野戦病院本部から臨時野戦病院が設けられた前記斉藤晴方に赴く際東山薫も大橋正明ら一〇名位の救護班の一員として行動を共にしていた旨の供述が存するが同供述は、右救護班の一員であった大橋正明・吉田孝信においても東山薫が右救護班の一員であったことを否定しているのみならず、右森山太一自身すらも検察官に対する昭和五二年六月四日付供述調書及び証人尋問調書においてはこれを変更しているところであって、到底信用し得るものではなく、又東山薫が前記臨時野戦病院で負傷者の救護等にあたっていたのを目撃した旨供述する者はなく、他にそれと思わせるに足る何らの証拠もないので、請求人らの前記主張はこれを認め難いところである。

(二)  その後に、東山薫を認めたという供述やそれに関する証拠の存するのは、当日の救護所である臨時野戦病院が設けられた斉藤晴方である。即ち、関係各証拠によれば、

(1) 右五月八日当日の救護所として臨時野戦病院が設けられた前記斉藤晴方敷地は、国道二九六号線道路の第五ゲートから約五五〇米東方・前記横宮十字路から約一〇〇米西方の該道路南側に位置し、その西側(第五ゲート方向)は南北に細長い杉林・雑木林及びその西側に沿った狭隘な畑地とそれらの南に続く植木畑によって前記資材置場に接し、その北側は約四米巾の門扉等のない出入口で巾員約五・三米のアスファルト舗装の右国道に通じ、その出入口の西方(第五ゲート寄り)は高さ約三米の生垣・トタン塀等や右杉林等の北側をもって約二〇・六米の巾で、右出入口東方(横宮十字路寄り)も同様高さ約三米の生垣等をもって約二二・二米の巾で、右国道に接しているものであり、その敷地内には、右西側生垣と約二米の距離をおき右杉林に接する様に現在は納屋に使用している南北約一五・二米、東西約八・六米(最長部分)の木造藁葺旧母屋一棟が、右旧母屋と約一〇・五米をへだて右東側生垣に約五・五米の距離を置き南北約九・五米東西約一〇・〇五米(最長部分)の木造瓦葺二階建母屋が存し、又右出入口から約二三・一米(南方)には物置・車庫・肥料置場に使用している南北六・五米東西約九・一米でほぼ中央に約三・五米の南北に通ずる通路を持つ吹抜けの鉄柱トタン葺の簡易建物が存し、その奥即ち南方には牛・豚舎等があり、本件当時右簡易建物の通路にビニールやむしろを敷き臨時野戦病院と呼ばれる救護所が設けられていたもので、右旧母屋・母屋・簡易建物と出入口・生垣にかこまれた南北約二三・一米東西約一〇・五米の中庭には、本件当時旧母屋沿いに赤十字マークを付けた乗用車が国道方向をむき、母屋沿いには二台の乗用車がほぼ簡易建物方向をむき前後して、簡易建物の前には貨物自動車が同建物方向をむきその西側に乗用車が一台は同じく同建物方向をむき、他の一台はほぼ西方をむいて並行して、それぞれ駐車していた。

(2) そして、右斉藤晴方で東山薫を認めたという前記斉藤優は、前述の様に東山薫や寺内金一らと別れたのち、右出入口より自宅である斉藤晴方にもどり、中庭を通って前述の簡易建物の裏手(南側)にある牛舎の窓を締めるなどしたうえ、右建物内の通路を通り中庭に戻り国道の方を見たところ、右出入口付近に五、六人の者がおり、その左(第五ゲート寄り)から二人目位に東山薫の後姿が認められ、国道上は生垣が邪魔になって左側部分(第五ゲート寄り)しか見えなかったが機動隊員がだいぶ来ており同人は機動隊の方をむいていた、その後前記杉・雑木林と植木畑の間を通って右斉藤晴方敷地に入って来た埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊の警察官に対し抗議したのち再び出入口の方を見たところ東山薫が頭を母屋の方を向いて地面に倒れていた旨述べている。又右の場所で東山薫と共にスクラムを組んでいたという者は大橋正明・森山太一・吉田孝信・斉藤伸子であるが、その大橋正明は、国道から警察部隊が乱入しようとして来るのを防ぐため右出入口に赴き国道にむかって一番左側に位置し、最初は右側の森山太一とスクラムを組んでいたが、多分背後から、あとで東山薫とわかった白っぽい様なサファリ風のジャケットにジーパンをはき頭にはヘルメットもかぶらず手拭・タオルもかぶらずまた手袋も眼鏡もしていない男が森山太一との間にはいって来てスクラムを組んだ、東山薫が倒れたので右森山太一が同じくスクラムを組んでいた者と三人で同人をかかえて救護所になっている前記簡易建物に運んだ旨及び当時自分は黒地に前・後にテープで赤十字のマークをつけたヘルメットをかぶり、ナイロン製の小豆色のヤッケを着てブルージーンズをはき、赤十字のマークがついた野戦病院のゼッケンを付けていた旨を、前記森山太一は、右出入口に赴き国道の方に向いてスクラムを組み警察部隊の乱入を阻止していたところ、頭にはヘルメットも何もつけず白っぽい作業服様の上衣を着て洗いざらしでよれよれの空色のジーパンをはいた東山薫が中庭の中央あたりから来て、左側の大橋正明との間に入って自分と腕を組んだ、そして同人が中庭の方向に頭をむけ右肩を下にして倒れたので、自分が首の下に手を入れ、大橋正明が胸の辺を、もう一人が腰から足を持って前記救護所に搬入した旨及び当時自分は野戦病院のマークの付いた赤ヘルメットをかぶり少し筋の入った白っぽいワイシャツを着てブルーのジーパンをはき赤十字のマークがついた野戦病院のゼッケンを付けていた旨を、前記吉田孝信は、右国道を第四インター派集団が東方に後退している際、右集団の者などが右斉藤晴方敷地に入って来ない様にするために右出入口で国道に向ってスクラムを組んだ者達の中に加わり、国道に向って野戦病院本部から一緒に来た救対の班長の右側・スクラムの右端の女の人の左側に入ってスクラムを組んだ、班長の左側(スクラム左端から二人目)にいたあとから東山薫と聞いたヘルメットをかぶらず手拭などもまいていないボサボサの髪でサファリコートの様な感じの上衣を着た人が頭を奥の方にむけて倒れたので、自分も両膝をかかえて三人で前記簡易建物の救護所に運んだ旨及び当日自分は赤十字のマークのついた黒色ヘルメットをかぶり水色のヤッケを着てブルージーンズをはき赤十字のマークのついた野戦病院のゼッケンをつけていた旨を、前記斉藤伸子は催涙ガスで眼を痛め治療のため野戦病院が設けられている右斉藤晴方に来て、そのままその手伝をしていたが、到着後二〇分乃至三〇分位した頃、頭髪は男としては長髪でヘルメットをかぶらず黒っぽい縁の眼鏡をかけ白っぽい感じの上衣をきて同じ様な感じのズボンをはいたところのあとから考えると東山薫ではないかと思われる男からの指示で、警察部隊が敷地内に入ってくるのを阻止するため右出入口で国道に向って組んだスクラムの一番右端に最後に加わり、左方からまわされて来た野戦病院の旗を持っていた、そして自分より二人おいたスクラムの右端から四人目の東山薫と思われる男がうしろにくずれる様に倒れ、スクラムを組んでいた人達が同人を取りかこみ前記簡易建物内の救護所に運んだが、その際自分もそばに行こうとしたところ二、三人の機動隊員がうしろから来て左腕を掴みそのまま旧母屋の壁に押しつけられた後解放された旨及び当日自分は首迄の長さのおかっぱ髪で黒色文字で何かが書かれている赤色ヘルメットをかぶり左腕に二本の白線が入っているナイロン製紺色ジャンパーを着て紺色のジーパンをはいていたがゼッケンはつけていなかった旨を、それぞれ述べているところである。

(3) ところで、右出入口付近の右の状況に関しては、前述の様に逃走する集団の一部を追跡して資材置場から右斉藤晴方敷地に入り、中庭を通って右出入口から前記国道に出た埼玉県警察本部警備部機動隊の第四中隊に随伴した千葉県警察本部警備部第一機動隊巡査部長寺西敏が右中庭から右出入口方向を撮影した写真がある。即ち、その①午前一一時二七分頃撮影にかかるNo.6―7―2写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)野戦病院前の状況No.115写真)には、旧母屋の軒柱と赤十字マークを付けた乗用自動車に遮られてはいるが、右出入口付近に黒色ヘルメットをかぶった者三人位、赤色ヘルメットをかぶった者七、八人位にまじり、ガス筒の白煙が流れあるいは立ち込めている国道上の右方向(横宮十字路方向)を眺めている白っぽい上衣で首にタオルか手拭をまいた無帽の者の肩辺から上の後姿が認められ(それらの者の中には鉄パイプを手にして国道に向い逃走している赤色ヘルメットの者も認められる)、②右に続いて撮影したNo.6―7―3写真(前同No.116写真)には、右赤十字マークを付けた乗用自動車のフロントガラスごしに右の無帽の者の着衣の一部が、赤十字マークの付いた黒色ヘルメットをかぶり小豆色のヤッケを着た者と同じく赤十字マークの付いた赤色ヘルメットをかぶり白っぽい上衣を着た者との間に写っており(前記鉄パイプを手にした者は生垣をくぐって国道上に出ようとしている)、③午前一一時二八分頃撮影したNo.6―7―5写真(前同No.118写真、写真集(11)野戦病院内部No.3写真)には、中庭にいる四人の者のほか右出入口付近にいる七人位の者の中に、国道に向い左から三人目に胸から下は前記乗用自動車に遮られてはいるが左腕を左側の者に接し、軍手をはめているとうかがえる右手で上衣の襟元からタオル又は手拭の様なものを引き出す様な格好をしている白っぽい上着を着た無帽でやや長髪の者の後姿が認められ、④右に引続き撮影したNo.6―7―6写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)野戦病院前の状況No.119写真、写真集(11)野戦病院内部No.4写真)には、右出入口付近にいる九人位の者の中で出入口に横に並んでいると思われる六人のうち左端に位置して右腕をひき(右側の者と腕を組む様な状態ではなく)上半身を国道に直角に近い程大きく右にひねり、首も右肩の線と同一の方向にまわして後方を振りむいている赤十字マークの付いた黒色ヘルメットをかぶり小豆色のヤッケを着て赤十字マークのついたゼッケンをつけている者の右側に、同人とは腕を組んでいない、無帽やや長髪で白っぽい上衣を着て首から肩にかけてタオル又は手拭様のものをまとって国道をまっすぐ見ている者の後姿が認められ、⑤更に続いて撮影したNo.6―7―7写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)野戦病院前の状況No.120写真、写真集(11)野戦病院内部No.5写真)には、出入口に並んでいると思われる六人の者のうち、左端の前記小豆色のヤッケを着て後方を振り向いている者の右側で、右腕はその右側の者と接してはいるが左腕は離している白っぽい上衣を着た無帽やや長髪で首にタオル又は手拭様のものをつけ、少し国道の右方向(横宮十字路方向)をむいている者が写っている。

そして、右①乃至⑤写真の無帽でやや長髪の白っぽい上衣を着た人物は同一人物であると認められるところであり、前記供述からすればその人物の右側の者は森山太一とされるところであり、(但し、別の服装をして右出入口に並んではいなかった者を同人と指示する証拠もある)、また前記供述や他の証拠によればその人物の左側の右③④写真で後方を振り向いている小豆色のヤッケを着た者は大橋正明と認められるところであり、右森山太一及び大橋正明は、両名の間にいる右人物は東山薫である旨述べているところである。

しかし、前記斉藤優は、右④及び⑤の各写真の右人物について、肩幅の広く腰ががっちりしているところや上衣の感じは東山薫の後姿に似ているが、頭髪は違うところもあり、又当日会った際東山薫は首に何もまいていなかったので、断定は出来ない旨述べているのみならず、前記笹川己三夫は、東山薫の頭髪はもう少し短かい様な感じであるから右④及び⑤の各写真の人物は東山薫ではないと思う旨、前記吉川祐雄は髪型が整いすぎており又眼鏡をかけている様子もないうえ全体的印象が異なるので右④及び⑤の各写真の人物は東山薫とは異なる旨、前記木川利秋は右④及び⑤の各写真の人物はウエーブがかかって櫛で梳かした様に比較的整った髪をしているが、東山薫の髪はボサボサしていて油気がなくまとまっていなかったと記憶しているので東山薫ではない旨それぞれ述べ、更に請求人の一人で東山薫の実父である東山博も、右④写真の人物は肩幅が広く体付きががっちりしている様ではあるが、全体から受ける肉親としての感じとしては薫とは違うし頭の形も違うので右人物は薫ではない旨、実母である東山恵津も検察官に対する昭和五二年六月一六日付供述調書においては、右④写真の人物は体格は良いようで腰のあたりが何となく薫に似ているが、ずんぐりした感じであり、薫の頭髪はあまり癖のない真っ直ぐのものでウエーブは少しもかかっていなかったし、つむじの位置も異なっており、着ている上衣もサファリコートの様ではあるが色が薄い点が薫のものとは異なるので、右人物は殆んど薫ではない旨それぞれ述べているところであり、加えて東山薫が常時使用していた眼鏡や時計が発見されていないこと、右③写真に写っている様にその人物は右手に軍手様のものをはめているのであるが、前記の様に事前に東山薫と会った者達はいずれも同人が軍手など手袋をはめていたのを見ていないことそして前記埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊の隊員の誰も東山薫が倒れるところや地上に横たわった状態を見た旨供述していないこと、等からすれば右人物を東山薫と認定することに疑念がないわけではない。しかしながら、右①乃至⑤の各写真に写っている者ら、特に右出入口に並んでいる者の服装は前記大橋正明らの供述とほぼ一致していること、前記関龍之助は右④写真の人物は上半身の体付き・髪型・服装の特徴からみて東山薫と思われる旨述べ、前記東山恵津も検察官に対する昭和五二年七月九日付供述調書においては、前記供述を変更し、右③写真の人物は上衣が薫のものの様に思う、右④写真の前述の人物が着ている上衣は自分が買ってやったサファリコートと思われるので右人物は薫である、つむじの位置は光線の関係や写真の写り方によって異なって見えるものと思われる、右⑤写真の前述の人物も上衣の色・型や腰の様子などからみて薫と思う旨述べているところであり、右①乃至⑤写真の前述の人物の上衣と東山薫が前記成田赤十字病院に搬入された際着用していたサファリコート(但し該サファリコートについて斉藤優・斉藤常次は右成田赤十字病院でこれを受取った後そのまま保管していた旨述べているが、木村康作成の昭和五二年一〇月二五日付鑑定書によれば血液付着後水等の液体の浸漬があったものと認められるところであり、洗濯等がなされた疑いが強くその保管関係については疑問のあるところではあるが)とその色・型が類似していること、当時前記斉藤晴方前国道上で鉄パイプ等で警察部隊に攻撃を加えたのち、後退して右出入口前を通過して行った第四インター派集団の一員であった原田節は、右出入口に女性一人を含むと思われる四、五人の者が横一列に並んで国道の方を向いて立っており、その中に一人頭に何もかぶらず薄茶っぽい着衣でゼッケンも付けていない、大柄でがっちりした普通より髪の長い男がおり、その両側にはほぼ似た様な背丈の救対のゼッケンを付けヘルメットをかぶっていた男が立っていた旨ほぼ①乃至⑤の各写真の状態と同じ説明をしたうえ、さらにそのゼッケンを付けていない男は両手を前面にそろえて出し急激に体が宙に浮いた形でその場にたたきつけられる様に右斜め後方に倒れたと述べていること、大橋正明・森山太一・吉田孝信がそれぞれ倒れた東山薫をかかえて中庭を通り救護所となっている前記簡易建物に運んだ旨述べていることは前述の通りであるが、他にも前述の様に資材置場から斉藤晴方敷地に入りその出入口から国道上に出るべく中庭を進んだ埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊の隊員の中にも、右中庭で、両腕を両側の者の肩にまわした様な格好で介抱されつつ前記出入口方向から救護所である前記簡易建物にむかっていた者や、三、四人の者が一人の者を両側から抱きかかえ「怪我人だ、どいてくれ」等の旨言いながら同様右出入口方向から右簡易建物の方に運んで来るのを目撃した者がいること、押収にかかる大橋正明着用の小豆色ナイロン製ヤッケと森山太一が着用していたという薄ねずみ色ワイシャツ及びゼッケンには、東山薫が着用していた押収にかかる前記サファリコート・丸首シャツ・白ワイシャツ・紺色セーター・薄水色ジーパン・白腹巻に付着していた血液と同じON型の血液が付着していたこと、成田赤十字病院において東山薫の着用していた衣類等を保管していた段階においてはその中に白いタオルも存在していたのを同病院の看護婦が見ていること等からすれば、右①乃至⑤写真に写っている前記の人物については前述の様な問題が存するものではあるが、前記大橋正明らの供述と併せ考えれば、右人物は東山薫と認めることが可能である。

(三)  とすれば、東山薫は、右斉藤晴方の前記出入口付近で受傷した可能性が極めて大きいものということができる。

二  次いで、東山薫が受傷した時刻について検討することとする。

(一)  森山太一は検察官に対する昭和五二年五月二五日付供述調書において、右時刻は午前一一時一五分頃と記憶している旨述べ、又大橋正明は検察官に対する昭和五二年五月二五日付供述調書において、右の時刻は午前一一時一〇分から一一時二〇分頃迄の間と思う旨述べているところであるが、いずれも前記芝山町朝倉地区にある野戦病院本部を出発した時間やその後の経過等から推測したというものであり、直ちにこれをもって東山薫が受傷した時刻とすることは出来ない。

(二)  そこで、関係各証拠に徴すると

(1) 東山薫が受傷したのは、前述のところからすれば、少なくとも埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊が前記資材置場から杉・雑木林と植木畑の間を通り前記斉藤晴方敷地内に入りその簡易建物と旧母屋との間から中庭に進出しつつあった時点以後であることは明らかである。そして前述の千葉県警察本部警備部第一機動隊巡査部長寺西敏が右第四中隊と共に右斉藤晴方の中庭に進出して同人方出入口付近にいる者などを撮影したNo.6―7―1乃至No.6―7―7写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)野戦病院前の状況No.114乃至120写真)の撮影時間は午前一一時二七分から二八分頃と認められ、右の最後の写真である前記No.6―7―7写真(前記No.120写真)においても、前述の様に東山薫と推認される人物がなお右出入口付近で国道の方を向いて立っている六人の者の中に写っているところであり、右第四中隊所属の警察官らの供述によっても、同人らが右出入口に向かって進んだ際、右出入口にいた者達が右斉藤晴方の中庭の奥(南方)に向かって後退するのとすれ違い(その際抱きかかえられてくる者を目撃している隊員もあったことは前述の通りである)、右隊員達の先頭部分にいたと思われる者の一人である右寺西敏は同人が右出入口に達した際には既にそこにいた者らは斉藤晴方中庭の奥(南方)に後退した後であった旨述べ、又同じく先頭部分にいたと思われる前記第四中隊第一小隊第一分隊長山本豊樹も同旨の供述をしているところであるから、右第四中隊員達が右出入口付近に到達して同所に集結し若干待機してから国道二九六号線路上に突出する迄の間、右出入口に右第四中隊ら警察部隊以外の者はいなかったものと認められ、結局東山薫はおそくとも右第四中隊員達が右出入口付近に集結する迄に受傷したものと推認し得るところである。

(2) 他面、その頃の右出入口前付近の国道二九六号線道路上の状況について、前記森山太一及び大橋正明は、スクラムを組んだ当時既に赤色ヘルメット集団は横宮十字路方向に後退して行き、これを追って行った警察部隊が規制を終ったものらしくゆっくり第五ゲート方向に戻って来て前記斉藤晴方出入口前を通過し、右斉藤晴方国道沿い西側杉林付近あるいは右出入口左斜め向い側にある宮野湛方敷地内の古い小屋の前付近で再び横宮十字路方向を向いて隊列を整えたところ、右出入口右側方向(横宮十字路方向)迄来た少数の赤色ヘルメットの者がごくわずかパラパラと投石し、これに対し、警察部隊から放水がなされ、ガス弾が発射されたが、その後しばらく空白状態となり、右斉藤晴方中庭に、警察部隊が前記簡易建物と旧母屋の間から入って来たのに気付いて後方を振り向いたその時、ガス弾の発射音がする等して東山薫が倒れた旨供述し、当時右国道上においては赤色ヘルメットの集団と警察部隊との間には特に緊迫した状況などはなかったものの如くいうのであるが、前記吉田孝信・斉藤伸子すら、スクラムを組んだ当時、右国道上は赤色ヘルメットの長い集団が道一杯にひろがり第五ゲート方向をむいて警察部隊に対し投石を加えつつ、じりじりと横宮十字路方向に後退して行き、それとある程度の距離をおいて、相当数の警察部隊が同様じりじりと追って来たが、右出入口を通過することなく停止して右出入口東側(横宮十字路方向)の赤色ヘルメットの集団と対峙し、催涙ガス弾が発射され路上で白い煙をふいていた等の旨供述しているところであるのみならず、前述の様に第四インター派集団の一員として、その集団の前列で当時右出入口前付近にいた前記原田節も、右斉藤晴方前国道上で、二回目の衝突があったあと、機動隊が一度後退し、私達の集団との間に一二、三米の間隔があいたが、すぐ機動隊からは私達の集団に対し三発乃至五発位のガス弾が発射され道路上にはいくらかではあるが催涙ガスが立ち込め、私達の集団からは機動隊に対し投石が行なわれていた、右ガス弾の発射のあと機動隊の方から放水が行なわれ私もその放水を浴びたが、その放水の直後、私達の集団と機動隊の中間になった臨時野戦病院の出入口にいた前述のヘルメットをかぶっていないやや長髪の大柄の男が倒れるという事態を目撃した旨述べているところであり、前記大橋正明・森山太一の各供述は他の証拠に徴して到底信用し得るものではなく、当時の右国道上の状況は前記第二の三の(三)記載のものであったことが認められるところである。そして、現にその状況に関しての各写真である埼玉県警察本部警備部機動隊巡査小原善行が午前一一時二七分頃右国道上で撮影したNo.9―7―12乃至No.9―7―14写真(五、八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)No.97・No.99・No.100各写真)には、右斉藤晴方出入口東端の切株より右斜め約七・七米の国道左側(北側)にある電柱(大里五六号)の辺りから右同人方出入口付近までの右国道上にいる鉄パイプを持った者達を前面にした多数の第四インター派集団らが埼玉県警察本部警備部機動隊第一、第二、第三中隊に対し鉄パイプによる殴打・刺突並びに投石等の攻撃を加え、警察部隊が楯で防いでいる状況が写っており、同機動隊巡査田辺保広が同じ午前一一時二七分頃右国道上で撮影したNo.9―19―13乃至No.9―19―15写真(前同No.98・No.101・No.102各写真)には、依然第四インター派集団らは同様の攻撃を続けそのため右第一乃至第三中隊は右斉藤晴方出入口の左斜め前方・国道をへだてた北側にある宮野湛方敷地内の古い小屋の西方(第五ゲート方向)迄後退せしめられている状況が写っており、千葉県警察本部警備部第二機動隊巡査鈴木教雄が午前一一時二八分頃右国道上で撮影したNo.15―26―15(二本目)・同No.15―26―16(二本目)各写真(前同No.104・No.105各写真)には、右斉藤晴方国道沿い西側杉林付近の国道の中央付近に横宮十字路方向をむいて停車している放水車の前面及び両側に後退して来ている埼玉県警察本部警備部機動隊第一乃至第三中隊や千葉県警察本部警備部第二機動隊などの隊員と、右斉藤晴方出入口付近に蝟集しなお投石などの攻撃を続けている第四インター派集団らが写っており、右鈴木教雄が午前一一時二九分頃同様国道上で撮影したところの、No.15―26―17(二本目)写真(前同No.106写真)には、警察部隊が右放水車の前面やその右側から撤退しおもにその後方や資材置場入口付近にかたまっている状況や右斉藤晴方出入口付近からなおも投石や火炎びん投擲の攻撃を続ける第四インター派集団らが写っており、更に前記田辺保広が午前一一時二九分頃同様国道上で撮影したNo.9―19―16写真(前同No.107写真)には、放水車からの放水により前記電柱(大里五六号)付近国道上で右集団が混乱状態となりその一部が背を向けて後退している状況が写っており、No.9―19―17写真(前同No.108写真)には、背を見せて後退して行く右第四インター派集団らの状態や、その根元にプラスチック製のビールびんケースが残されている右電柱付近で数人の同派の者達が前かがみになっている仲間をかこんでいる状況が写っており、No.9―19―18写真(前同No.109写真)には、右第四インター派集団らの者達が右プラスチック製ビールびんケースを右電柱の根元に残したまま後退し前記宮野湛方右国道沿い生垣東端寄りに集結しつつある状態や少数の者がこれを追って後退している状況と右国道上に無数の石が散乱している状態が写っており、埼玉県警察本部警備部機動隊警部補佐々木勲が右午前一一時二九分頃右国道上で撮影にかかるNo.10―23―25写真(前同No.110写真)には、右の様に後退して又集結した第四インター派集団らの者達が警察部隊に対し再び投石を加えている状況や千葉県警察本部警備部第一機動隊の印のついたヘルメットをかぶりガス筒発射器を持った隊員が一人放水車の前に進出した状態が写っており、続いて千葉県警察本部警備部第二機動隊巡査高柳秀樹が午前一一時二九分頃右国道上で撮影したNo.14―25―35写真(前同No.111写真)には、右国道の第五ゲート方向からみて左寄りで放水車の前に千葉県警察本部警備部第一機動隊の印のついたヘルメットをかぶった隊員のうち二人がガス筒発射器を構え他の一人が楯を持っている状況及び前記電柱の根元付近でガス筒の煙があがっている状況が写っており、No.14―25―36写真(前記No.112、写真集(14)野戦病院先路上No.17写真)には、埼玉県警察本部警備部機動隊や千葉県警察本部警備部第二機動隊及び同第一機動隊の印のついたヘルメットをかぶりガス筒発射器を持った隊員が放水車の前方右斉藤晴方国道沿い西側のトタン塀の西端付近まで進出し、前述の状態の第四インター派集団らに対しガス筒を発射している状況や、右斉藤晴方出入口に白い指揮杖を持った者を含む数人の警察部隊の隊員(右国道上に突出する機会をうかがっていた埼玉県警察本部警備部機動隊第四中隊武笠美夫中隊長代理らであることは右武笠美夫に対する証人尋問調書によって明らかである)がいる状態が写っているのである。

(3) 又前掲の千葉県警察本部警備部第一機動隊巡査部長寺西敏撮影にかかる、No.6―7―2・No.6―7―3写真(前記第三の一の(二)の(3)記載①・②写真)には、右斉藤晴方出入口付近に立っている者やその国道沿い東側生垣などごしに、前記電柱(大里五六号)付近から横宮十字路方向にかけての前記国道上に多数の赤色ヘルメットの者が蝟集しており、同人方中庭から右生垣をくぐって赤色ヘルメットの者が同集団の方に向かっている様子や右出入口付近にいる者達がガス筒の煙がただよっている右国道上の右赤色ヘルメットの集団を眺めている状態が写っており、No.6―7―5写真(前同記載③写真)では生垣ごしに赤色ヘルメットの者達が認められ前記電柱付近では前かがみになっている者を数人の赤色ヘルメットの者達が引きおこそうとしている状態が写っており、さらにNo.6―7―6・No.6―7―7写真(前同記載④⑤写真)からはなお右電柱付近の国道上に数人の赤色ヘルメットの者が残っていることが右出入口に立っている者達と右生垣の間から認められるところである。

(三)  そして、右の国道上から撮影した各写真と右斉藤晴方中庭から撮影した各写真とを対比・検討してみると右中庭から千葉県警察本部警備部第一機動隊巡査部長寺西敏が撮影した前記No.6―7―5写真と右国道上から埼玉県警察本部警備部機動隊巡査田辺保広が撮影したNo.9―19―17写真とはほぼ同一時間に一部ではあるが同一の状態を違った方角で撮影したものと認められる。然りとすれば前述した経過と各写真の内容とを併せ考えると東山薫は右寺西敏撮影のNo.6―7―7写真撮影後おそらくは右田辺保広撮影のNo.9―19―18写真、埼玉県警察本部警備部機動隊警部補佐々木勲撮影No.10―23―25写真が撮影された後、千葉県警察本部警備部第二機動隊巡査高柳秀樹撮影のNo.14―25―36写真の撮影迄の間に受傷したものと推認され、従ってその受傷時間は午前一一時二八、九分頃と認められる。

第四受傷原因等の検討

一  東山薫は、前述の如く、昭和五二年五月八日午前一一時二八、九分頃、前記斉藤晴方出入口付近で、右頭頂部挫傷・頭蓋骨陥凹骨折に基づく脳障害(脳挫傷・脳挫滅)の傷害を受けたものと認められるところであるが、その受傷原因について、請求人らは、警察部隊の新型催涙ガス銃を持った隊員が、至近距離から東山薫の右後頭部目がけて水平発射した新型催涙ガス弾が命中したものである旨主張する。

そこで、順次検討することとする。

二  東山薫が右の様に催涙ガス弾によって受傷した旨供述する者は、他にも存するが、いずれも伝聞乃至推測にかかるものであり、東山薫が右の様に受傷し転倒した際の状況を直接目撃したと供述している者は、全証拠をみても、東山薫と共にスクラムを組んでいたという前記大橋正明・森山太一・吉田孝信・斉藤伸子と、第四インター派集団の一員で前記斉藤晴方出入口前付近の国道二九六号線道路上にいた原田節の五人にすぎない。

(一)  そこで、まず右の五名の供述を見ると、

(1) 右スクラムの左端で、東山薫の左隣りに位置していたという大橋正明は、検察官に対する各供述調書(昭和五二年五月二五日付・同年六月四日付・同月二七日付)において、「臨時野戦病院が設けられていた斉藤晴方敷地内への機動隊の乱入を防ぐため、その出入口でスクラムを組んでいた。横宮十字路方向から引揚げて来た五〇名乃至六〇名の機動隊は、右出入口の左斜め前・国道向い側の宮野湛方敷地内にある古い小屋の前あたりの国道上で楯を並べ再び横宮十字路方向をむいて規制隊形をとったと思う。右国道上の機動隊から放水があった後一分も経過しない頃、機動隊が裏手(南側)から右斉藤晴方敷地に入ってくるのではないかとの不安があったので、首を右にまわして後方を振り向くと、前記簡易建物と旧母屋との間から機動隊員が中庭に入って来たのが見えたので、右側の東山薫や森山太一を覗く様にして、後ろから機動隊が入って来た旨同人らに注意を喚起した。その結果、同人らが首を左にまわした様な気がするが、私はまた顔を国道上の方に戻した。その直後『ブシュー』という音がして、私の目の前二〇糎のところを、やや左斜め前方からやや右斜め後方に向かい、ほぼ水平か又は少し右上りの角度で、何かが直線的に飛んで行き、次の瞬間、右隣りの東山薫が頭を母屋の方にむけて倒れた。同人が倒れた直後国道上に目をやると、私の立っていた地点から三米位先の、国道のセンターラインにかかっていたかそれよりも一寸向う側(北側)くらいのところに、ガス弾が白い煙をあげて比較的ゆっくり回転していたので、そのガス弾が同人に当ったと思った。そのガス弾は長さ一七、八糎直径三、四糎の円筒形の薄茶色の固いボール紙製のもので、押収にかかる旧型のS一〇〇L型催涙ガス弾と同じ様なものであって、押収にかかる赤色の新型M三〇S型催涙ガス弾とは異なる種類のものである。先日の新聞(他の証拠からみて五月二四日付と思われる)によると、東山薫に当ったのは新型ガス弾である旨木村康教授が鑑定されたとのことであるが、私の見たガス弾と違うことになり、ひどく混乱した気持になっている。私の位置から見えた国道上の機動隊員は一、二名程度でガス銃は持っていなかった。」等と述べ、後の証人尋問調書(昭和五三年八月二三日)においては、「東山薫も左斜め後ろを振り向いたといっていいと思う。ガス弾の発射音は私の左の方からした様に覚えており、生垣にさまたげられていたので、左のどの位の距離のどのあたりからか言えないが、機動隊の後ろあたりから発射されたと思われる。道路の向い側(北側)から飛んで来たという感じではなかった。国道上のガス弾は、検察官には旧型のものといったが、くるくるまわっているのを瞬間的に見たものであるし、当時はまだ新型ガス弾を見たことがなかったので、今思うと、いずれかはっきりしない。又白いものを吹き出していたがくるくるまわっていたので、粉か煙かもはっきりわからなかった。」と述べているところである。

(2) 又前記スクラムの国道に向って左側から三人目で、東山薫の右隣りに位置していたという森山太一は、検察官に対する各供述調書(昭和五二年五月二五日付・同年六月三〇日付)においては、「前記斉藤晴方出入口付近で機動隊の乱入を防ぐためスクラムを組んだ際、国道上を横宮十字路方面から戻って来た機動隊は、右出入口の左斜め前・国道の向い側の宮野湛方敷地内にある古い小屋の前あたりの、我々のスクラムの中央から七、八米の距離のところで、再び横宮十字路の方向をむき隊列を整えた。最前列には大楯を構えた隊員が一列になっているのが見えたが、ガス銃を持った隊員はみえなかった。誰かの『危ない』という声がしたので、何事かと思い顔を左にまわしてみると、裏手(南側)から機動隊が中庭のトラックのところまで入り込んでいるのが目にはいった。私の左側にいた東山薫も同時に顔を左から後方にまわし中庭の機動隊の方を見ていた。その瞬間、国道上の左手にいた機動隊の中からガス銃を発射する『バババーン』という音が立て続けに十数発聞こえたが、私はその時中庭の方を振り向いていたので、どの位置・距離から、ガス銃を持った隊員が撃ったか見ていない。そのガス銃の発射音がしたと同時に左横にいた東山薫が中庭の方向に右肩を下にして倒れた。ガス銃の発射音と同人が倒れたのがほとんど同時であったのと、すぐ顔をもどして国道上の機動隊の方を見た際に、向かって右側の最前列に、どの様に構えて何をしようとしていたかまでは確認していないが、ガス銃を持った三人の隊員のいるのを見たので、機動隊員がガス銃で東山薫を撃ったと思った。しかしガス弾が飛んで来るところや東山薫に当った瞬間は見ていないし、同人が倒れたあとになってからも当ったと思われるガス弾は見ていない。」等と述べているが、証人尋問調書(昭和五三年八月二三日)においては、「大橋正明が『裏から機動隊が来た』と声を出したので、私が左に顔をまわして振り向いた時、東山薫も同様左に顔をまわして振り向いた。その後同人が顔を国道の方に戻し、次いで右の方を向いたかどうかは知らない。そのあと、ガス銃の発射音が数十発聞こえ、それと同時に東山薫がはじかれる様に倒れた。すぐ顔を戻して国道上の機動隊の方を見ると、大楯を構えていた機動隊員と重なる様な感じでガス銃を構えている機動隊員が四、五人程見え、その内の幾つかの銃口が私達の方を向いていた。その様な機動隊員をみた直後、前記出入口右端の切株の前付近の国道上に、明確に新型とは断言できないが、茶色と赤色の混ざった様な色でM三〇S型催涙ガス弾の様な感じのガス弾が落ちていて煙を吹き出していた。それは新型で全部赤色のM三〇型模擬弾ではなかった。ガス弾と思われるものが飛んで来る音やそれが路上に落ちる様な音は聞いていない。検察官に対し切株の前付近の国道上にガス弾が落ちていたといわなかったのは、新型ガス弾という自信がなかったからである。国道の向い側には機動隊はいなかったし、そちらや反対の中庭の方からはガス銃の発射音は聞こえなかった。」と供述しているところである。

(3) 次に、前記スクラムの国道に向って左側から四人目、右端から二人目に位置していた吉田孝信は、検察官に対する供述調書(昭和五二年五月三〇日付)において、「前記斉藤晴方出入口の国道際でスクラムを組んだ時、国道上では学生集団が道路一杯になって投石しながら横宮十字路方向にじりじり後退し、これを機動隊が追って来たが、機動隊は右出入口を通過することなく、その西端より少し西側(第五ゲート方向)迄後退し、そこで隊列を整えた。生垣でさえぎられて良く見えなかったが、右機動隊に対し一〇人位の学生が投石し、機動隊の放水車から四、五秒間放水がなされ、その飛沫が顔にかかったので、若干中庭に後退した。その放水がやんだ直後の空白状態の中で、ボーンという音がしたと思ったら、私の左の方に白い線が走るのが見え、私の左隣りの班長の更に左側の人(あとで東山薫と聞いた)が頭を奥の簡易建物の方にむけて倒れた。」等と述べ、証人尋問調書(昭和五三年八月二三日)においては「放水がやみ右出入口の前の国道上が空白状態となった時、後ろの方が騒がしくなったので振り向くと大体同時に『ポッ』という様な音が聞こえたので、国道の方を見ると、機動隊の方向から東山薫の頭上の方にむかって白い糸の様に細い軌道のようなものが見え、東山薫が倒れた。白い軌道の様なものは正面からでもなく、後方からでもなかった。『ポッ』という音はガス銃の発射音と思った。その音は左前方でした。その音の聞こえたあたりには機動隊はいたと思うが、ガス銃を持った隊員は見ていない。正面や後方でガス銃の発射音がした記憶はない。又東山薫の足元で金属音がしたのは聞いていないし、その足元や同人を前記簡易建物に運ぶ途中でガス弾の落ちているのを見たことはない。後方を振り向いたとき庭の中には機動隊は入っていなかったと思う。スクラムを組んでいた者の中で『機動隊が入って来たぞ』という様なことを言った者がいたかどうかはっきりしない。東山薫を運ぶ途中機動隊員に囲まれたが、いつ入って来たものかわからない。」等と述べている。

(4) そして、右スクラムの国道に向って右端で、左から五人目に位置していた斉藤伸子は、検察官に対する供述調書(昭和五二年五月三〇日付)において、「機動隊が私達がスクラムを組んでいた右斉藤晴方出入口より西側(第五ゲート方向)に戻った後も、出入口前付近の国道上には何発かのガス弾が飛んで来て、白い煙をあげており、斉藤晴方の庭にもガス弾が飛んで来ていたが、私の立っている所からは機動隊員の姿は見えなかった。私は足元から五、六米位前方に落ちたガス弾の催涙ガスを吸って咳込み、少し前かがみになっていたところ、スクラムを組んでいた者の一人が『後ろからも機動隊が来るぞ』と言ったので、スクラムを組んだまま顔を左に一二〇度か一三〇度位まわして後ろを見たが、私の目には機動隊員の姿は見えなかった。一、二秒した時『ガチャッ』とか『コトッ』という音がしたので、顔を少し前に戻して音のした左横の方を見たところ、あとで東山薫と聞いた人が顔を九〇度位右にまわして、丁度私を見る形になった。その時の同人の目は茫然となっている感じであった。そのあと、同人はうしろにくずれる様に倒れた。普通のガス弾はボール紙の様なもので出来ており、頭に当っても死ぬような怪我はしないと思うし、落ちる時『ガチャッ』とか『コトッ』とかいう様な金属音はせず、また飛んで来る時や落ちてからも白い煙を出しているのに、東山薫が倒れた時には白い煙も見ていないし、近くの道路上に落ちて煙を吹き出しているガス弾も見ていないので、東山薫に当ったのは模擬弾だったと思うが、私は機動隊が何処からそれを射ったかわからない。」等と供述し、証人尋問調書(昭和五三年八月二三日)においては、「東山薫の方を見た時、白い煙や何か物体が同人の方に飛んで来るのは見ていないし、又ガス銃の発射音も聞いていない。『カラン』とか『コロン』とかいうプラスチック製か金属製のものが地面に落ちた音を聞いた。目も痛くならないし煙も見えなかったので、最初は『不発弾かな』と思ったが、その日の夕方の集会の時演壇で話をした人が模擬弾を示していたので、多分模擬弾とか新型ガス弾の様なプラスチック製のものが落ちた音と判断した。東山薫と顔をあわせた時、同人は、ひどく茫然というか、驚いているというか、何か衝撃を受けたような表情をしており、顔をもと(正面)に戻して、その直後倒れた。」と供述している。

(5) 更に当時斉藤晴方出入口前付近の国道上にいた第四インター派集団の一員であった原田節は、検察官に対する各供述調書(昭和五二年六月一八日付・同月一九日付)において、「右斉藤晴方前国道上で、鉄パイプで殴打・刺突する等の攻撃を機動隊に加え、そのため機動隊が後退し、私達の集団との間に一二、三米位の間隔が出来たが、再び機動隊がじりじりと前進して来て、私達の集団は同じ位の速度でじりじり後退した。私は私達の集団の前列で第五ゲートに向って右から二番目位に位置していた。野戦病院の出入口には横一列になって国道の方を見ている四、五人がおり、その中にヘルメットをかぶらず救対のゼッケンも付けていない大柄のやや長髪の男がいた。前述の様に機動隊との間隔が出来たあと、機動隊からは三発乃至五発ガス弾が撃たれ、私達の集団からも機動隊に対し投石が行われていた。機動隊の放水車から放水があり、私もその放水をあびたが、そのすぐあと、右大柄の男は立ったまま丁度首だけ動かして、まず左側の機動隊の方を見、引続いて右側の私達の集団の方を見た。その次の瞬間、その人物は両手を前にそろえて出し、体が宙に浮いた様な形で、たたきつけられる様に、その場に倒れた。その当時、その男が立っていたところは私から直線距離で四、五米のところであった。従来のガス弾の様に煙も見えず、飛んで来るところも見えなかったので、内心新らしいガス弾の直撃と思った。そのあと機動隊の方からガス弾が一〇発位飛んで来た。右の男が倒れた瞬間、機動隊の方を見ているが、前面には楯がずらりと並べられており、その背後にガス銃を持った機動隊員がいたのではないかと思うが、実際にはそれを見た記憶がない。」等と供述しているものである。

(二)  そして、右供述者のうちの大橋正明及び森山太一による現場での写真撮影、実況見分の際の各指示説明についてみると、

(1) 中山雅樹作成の昭和五二年五月二七日付写真撮影報告書(昭和五二年五月二〇日撮影)添付カラー写真三本目No.2乃至No.5の各写真は、同人の検察官に対する供述調書によれば、弁護士の立会を得て、森山太一・大橋正明の指示により当時のスクラムの状態を再現したものとされているのであるが、右スクラムは前記斉藤晴方出入口の生垣の線よりやや中庭に入ったところに、五人の者によって作られ、国道に向って左端より二人目の東山薫がいたという位置の人物(斉藤優)は、ほぼ国道に平行に両足をやや開いて立ち、左右の者とゆるく腕を組んだ状態で、特に右No.2及びNo.3の各写真においては、該人物は右の様にスクラムを組んだまま左肩を国道に対して直角に至らない程度に左斜め後方に引いて上半身のみ左斜め後方にひねり、顔も同様左肩の線の方向にまわした状態で、それぞれ写っている(なお、同報告書添付モノクロ三本目No.6及びNo.9にも同様の写真がある。)

(2) 検察官豊嶋秀直作成の昭和五二年六月二一日付実況見分調書によれば、告訴代理人(請求代理人)も立会って、右同月八日、前記斉藤晴方建物・敷地及びその周辺についてなされた実況見分に際して、立会人大橋正明は、「右斉藤晴方出入口の国道際から約〇・九米中庭に入ったところに作られたスクラムの国道に向って左端に位置し、約〇・六米右側の東山薫とゆるやかに腕を組んでいた。左斜め前方約八米及び約七米の国道上に(東山薫の位置からみると左斜め前方約八・四米及び約七・七米)、約〇・七米の間隔を置いて機動隊員が二人立っていたのを見ている。裏手から機動隊が入って来たのに気付き顔を右にまわし『後ろからも機動隊が来るぞ』と叫んだ時、右側の東山薫もその位置で、首を左にまわして後方を振り向いたが、その直後倒れた。」と指示説明しており、添付の実況見分写真集(二)には、右指示説明に基づいて、右大橋正明が東山薫とスクラムを組んだ状態のものとしてNo.③乃至No.⑥写真が、右大橋正明が後方を振り向いた状態のものとしてNo.⑦写真が、東山薫が後ろを振り向いている状態としてNo.⑧写真が貼付されている。そして、右No.③乃至No.⑥写真では、東山薫の位置にいる人物(斉藤優)と右大橋正明がゆるく腕を組みあっており、右No.⑦の写真では右人物と腕を組んだまま右大橋正明が右肩を国道に対して直角に至らない程度に右斜め後方にひねり、顔も同様右肩の線の方向にむけて右斜め後方を振り向いており、右No.⑧の写真では右人物が大橋正明と腕を組んだまま左肩を国道に対して直角に至らない程度に左斜め後方に引いて上半身のみ左斜め後方にひねり、顔も同様左肩の線の方向にむけて左斜め後方を振り向いていることが、それぞれ認められる。又立会人森山太一の指示説明は、「同様右斉藤晴方出入口の国道際から約〇・九米中庭に入ったところに作られたスクラムの国道にむかって左端から三人目に位置し、約〇・六米左側の東山薫とゆるく腕を組んでいた。左斜め前方約八・六米、約八・二米、約七・八米の国道上に(東山薫の位置からみると左斜め前方約八・一米、約七・八米、約七・三米)、それぞれ〇・六米の間隔をおいて三人の機動隊員が立っているのを見ている。裏手から機動隊員が入って来るのに気付いて首を左にまわして後ろを振り向いたが、その時、東山薫も同様首を左にまわして後ろを振り向いた。その直後に東山薫も倒れた。」というものであり、添付の実況見分写真集(二)には右指示説明に基づいて、右森山太一が東山薫とスクラムを組んだ状態のものとして写真が、右森山太一が後ろを振り向いた状態のものとして写真が、東山薫が後ろを振り向いている写真として写真が貼付されている。そして右写真では東山薫の位置にいる人物(斉藤優)と右森山太一がゆるく腕を組みあい、右写真では右森山太一が右人物の右腕と自己の左腕をゆるやかに組み、両足をやや小幅に開き、左肩を国道に対して直角に至らない程度に左斜め後方に引いて上半身のみ左斜め後方にひねり、顔も同様左肩の線の方向にむけて左斜め後方を振り向いており、右写真では腕を離して心持ち前こごみになったほかは右写真と同じ状態の森山太一の左隣りの人物が、足を国道に沿ってほぼ平行に開き、左肩を国道に対して直角に至らない程度に引いて上半身のみ斜め後方にひねり、顔も同様左肩の線の方向にむけて、左斜め後方を振り向いていることが、それぞれ認められる。

(三)(1)  右各供述に徴すると、東山薫が受傷し倒れた際及びそれに直近する時期に、ガス筒が発射されたのは、国道上の前記斉藤晴方出入口の左方・第五ゲート方向からのみであり、右出入口の右国道を隔てた向い側や右斉藤晴方の中庭からは発射されていないことが認められ、他の証拠に徴しても、これを肯認し得るところである。

なお、森山太一は、検察官に対する供述調書添付の略図に、(その時期は必ずしも明らかではないが)右出入口の右手(横宮十字路方向)国道上から右斉藤晴方敷地内にむけてガス筒が発射されたものの如く記載しているが、かかる記載は、同人以外の右各供述者の供述やその他の証拠に徴しても到底措信し得るものではない。

(2) しかして、東山薫と思われる人物が、右受傷の際、顔をどの方向に向けていたかについては、右各供述等の間には相違があり、必ずしも明白とは言えないところである。即ち、前記大橋正明は、同人が「後ろから機動隊が入って来た」旨注意を喚起した際、東山薫も首を左にまわして後ろを振り向いた様な気がする、あるいは振り向いたと言っていいと思うと供述しているのであって、その供述によれば、同人は東山薫が後ろを振り向いていたか否かについて明確な認識を有しているものとは認め難く、吉田孝信は後ろが騒がしくなったので振り向くと同時に「ポッー」という様な音が聞え、国道の方に顔を戻すと、あとで東山薫と聞いた人が倒れるのが見えた旨述べており、同人が倒れる前即ち受傷の際に、どの方向に顔を向けていたかについては認識していないのであり、前記斉藤伸子は、「後ろからも機動隊が来たぞ」との声を聞き、顔を左斜め後ろにまわしたが、その一、二秒後地上に金属製かプラスチック製の物体が落下した様な音を聞き顔を少し前に戻したところ、茫然とした目付きの、あとで東山薫と聞いた人と顔を見あわす形となり、そのあと同人は顔を正面に戻し倒れた旨供述し、これまた右の如く東山薫と思われる人物が顔を右に向ける前に、どの方向をむいていたか認識しておらず、さらに前記原田節は、東山薫と思われる大柄の男は首をくるくるとまわす状態で首だけ動かし、まず左側の機動隊の方を見て引続き右側の私達の方を見たが、次の瞬間、両手を前にそろえて出し、体が宙に浮いた様な形で、たたきつけられる様にその場に倒れたと述べ、東山薫と思われる大柄の男が受傷したのは顔を右にむけ国道右側(横宮十字路方向)の第四インター派集団らを眺めていた際とうかがえる供述をしているところであり、結局東山薫が受傷の時左斜め後方を振り向いていたとするのは森山太一の供述と前記写真撮影並びに実況見分の際における森山太一・大橋正明の指示・説明のみである。しかしながら、前述の如く大橋正明は検察官に対する供述調書や証人尋問調書においては、東山薫が首を左にまわして後ろを振り向いたか否かについて、必ずしも明確な認識を持っていなかったような供述をなしているのに、右各供述の間になされた写真撮影や実況見分の際には、何故に前述の様な具体的な指示説明をなしたものか、全証拠に徴してもその理由を明らかになし得ないところであり、従って、同人の右指示説明は容易に措信し得ないところである。そうすると、東山薫が受傷の時顔を左斜め後方に向けていたとするものは、森山太一の供述並びにその指示説明のみということになるものである。

(3) そして、右の者達も、東山薫がいかなる物体によって受傷したかを、直接目撃しているものではない。即ち、

大橋正明は、「ブシュー」という音がして、目の前二〇糎位のところを、やや左斜め前方からやや右斜め後方に向かって、ほぼ水平か又は少し右上りの角度で、何かが直線的に飛んで行き、次の瞬間、右隣りの東山薫が倒れたことと、その直後国道上に、旧型のガス弾が白い煙をあげて回転していたことから、そのガス弾が東山薫に当ったものと思ったというのであり、森山太一は、「バババーン」というガス銃を発射する音が聞こえたのと同時に東山薫が倒れたことと、すぐ国道上を見たところ、機動隊の向かって右側の最前列に、どの様に構えていたかわからないが、ガス銃を持った三人の機動隊員がいたので、当ったと思われるガス弾はその後も見ていないけれども、機動隊員がガス銃で東山薫を撃ったと思ったといい、吉田孝信は、「ボーン」というガス銃を発射する音と思われる音がし、左側の方に白い線が走るのが見え一人おいて左側の東山薫とあとで聞いた人が倒れたことと、その白い線は糸の様に細い軌道状のもので、機動隊の方から右の人物の頭の方に向っていたので、ガス銃を持った機動隊員は見ていないし、ガス弾が地面に落ちた様な音も聞いておらず、又地面に落ちているガス弾も見ていないが、ガス弾が東山薫に当ったと思ったというものであり、斉藤伸子は、「後ろからも機動隊が来るぞ」との声を聞き顔を左斜め後ろにむけたが、その一、二秒した時「ガチャッ」とか「コトッ」とかいう金属製かプラスチック製の物体が地面に落下した様な音を聞いたので、顔を少し前に戻し音のした左横を見たところ、東山薫とあとで聞いた人が顔を九〇度位右にまわしたので、丁度顔を見あわせる格好となったが、その時同人は何か衝撃を受けた様に茫然とした目付をしており、そのあと同人は顔を正面に戻して倒れたので、その時、白い煙も見ていないし、近くの道路上に落ちて煙を出しているガス弾も見当らなかったうえ、従来のガス弾ならばボール紙の様なもので出来ているので頭に当っても死ぬ様な怪我はしないだろうから、模擬弾が同人に当ったと思ったというのであり、原田節は、東山薫と思われる大柄の男は、くるくるとまわす状態で首だけ動かして、左の機動隊の方を見、次いで右の私達の集団を見たが、次の瞬間、両手を前にそろえて出し、体が宙に浮いた様な形で、たたきつけられる様に、その場に倒れた、その時、従来のガス弾の様な煙も見えず、飛んで来るのも見えなかったので、新らしいガス弾の直撃と思ったというものである。

なお、大橋正明は、前述の如く、検察官に対する供述調書においては、国道に落ちていたのは旧型催涙ガス弾と明白に供述していたものであるのに、証人尋問調書においては、そのガス弾は旧型とは断言できない旨供述を変えているものであるが、その変更についての合理的な理由は見出し得ない。又森山太一も前述の如く、検察官に対する供述調書においては、東山薫が倒れた直後国道上を見たところ国道上向かって右側の最前列に、どの様に構えていたかわからないが、ガス銃を持った三人の機動隊員を見ている(前記の実況見分等の際も同様に指示説明している)ものの、東山薫に当ったと思われるガス弾は見ていない旨述べていたのにもかかわらず、証人尋問調書においては、東山薫が倒れた直後国道上を見たところ、大楯を構えていた機動隊員と重なる様な感じで、四、五人の機動隊員がガス銃を構えているのが見え、その中のいくつかは銃口が私達の方を向いていた旨、及び前記斉藤晴方出入口右端の切株の前付近国道上に明確には断言できないが新型催涙ガス弾の様な感じのガス弾が煙を吹き出していた旨供述を変更しているのであるが、右変更・付加についても、弁護士立会のもとに実施された前記写真撮影や実況見分の際にも同人はかかる指示・説明等を全くなしていないし、右出入口西端に位置していた斉藤伸子すらかかる供述をなしていないことなどからみても、その合理的理由を見出すことは困難であり、同人の他の事項についての供述内容等に徴しても、右の変更・付加した事実は到底措信し得るものではない。

(四)  とすると結局、当時ガス筒が発射されたのは、前記斉藤晴方出入口より国道にむかって左手の国道上の方向(第五ゲート方向)からであることは明らかであるが、東山薫が受傷した際、どの方向に顔を向けていたのかは右供述者らの間においても一致していないものであり、又右供述者らは、いずれも東山薫がいかなる物体によって受傷したかを直接目撃しているものではなく、各人の目撃した状態からそれぞれ東山薫又は東山薫と思われる人物は、ガス弾(旧型・新型・模擬弾の別はさておくとしても、)によって受傷したものと推測しているのである。そして、その各人の目撃した状態そのものも、同一の機会・同一の場所のものであるのにもかかわらず、前述の如く、大きく食い違うだけではなく、矛盾しているところも少なくないのである。

以上によれば、右の供述等からは、東山薫の受傷の原因が、ガス筒による可能性の存在は認め得るものの、ガス筒によって受傷したものとただちに認めることは困難といわなければならない。

三  そこで、すすんで法医鑑定等の結果を検討することとする。

(一)  東山薫の死因は、その右頭頂部打撲による右頭頂部挫裂創・頭蓋骨陥凹骨折に基づく脳障害(脳挫傷・脳挫滅)と認められるところであるが、右損傷は要約すると、次の様なものであるとされている(便宜上その解剖を担当した後記の木村康作成の鑑定書の記載を基礎とし、錫谷徹作成の鑑定書の記載をもって補充する等した。)

(1) 右頭頂部挫裂創(又は挫創及び裂創)は、別図(1)記載の様なものである。即ち、解剖に際して観察したところによれば、右頭頂部の下界に於て、右耳介付着部より上方約五糎・後方約二糎の部に端を発して後方に向うもので、上下二条より成り、これにより囲まれた頭皮は不規則な紡錘形をなしている。その上部の挫裂創(又は挫創及び裂創、以下同じ)は右耳介付着部より上方約五糎・後方約二糎の部に端を発して後上方に向かい、長さ約四糎、創縁は不規則小鋸歯状をなし、前後(上・下)創角は正鋭、創は開し、創の深さは約二・五糎。下部の挫裂創は、ほぼ上部の挫裂創の前端にはじまり弧をなして後方に向かい弦の長さは約三・五糎、弦を前方におく。創縁は小鋸歯状をなすもやや鋭にして前後(上・下)創縁の周囲には幅約〇・三糎乃至〇・四糎(約〇・一糎乃至約〇・三糎)の表皮剥脱を伴う。この挫裂創は前端より後方約〇・五糎の部よりわずかに開し、創の深さは約一糎前後、前端約〇・五糎の部分はきわめて浅い裂創より成り線状をなす。右の上・下二条の挫裂創の各上創壁並びに前創壁はいずれも鋭角、各下創壁並びに後創壁はいずれも鈍角をなす。下部の挫裂創の前創角には前後径約一・五糎、上下径約〇・五糎の皮下出血を伴い、前創角は線状小裂創を伴うもやや挫滅状を呈し、後創角は前述の上部の挫裂創と連なり、結合部は正鋭である。上・下二創の最大幅は約一・八糎である。なおこの二条の挫裂創の前方に接する右後頭部の右耳介後面付着部に接する部、また右耳下腺咬筋部にひろがる高度の皮下出血が存し、右後頭部に於ては暗青色、右耳下腺咬筋部に於ては淡青色を呈し、この皮下出血の前後径は約五糎・上下径は約六糎を算し、辺縁部は不明瞭である。そして、解剖時採取した頭皮について、更に右挫裂創の性状を精検した結果、その頭皮は内面の帽状腱膜下結合織を測定から除外すると、頭皮固有の厚さは〇・五糎乃至〇・八糎である。上部の挫裂創の両端部は浅い裂創によって形成されほぼ中央部(h点)を中心として上(前)創縁に長さ〇・八糎の範囲内で幅〇・二糎以下の表皮剥脱があり、下(後)創縁には右h点から屈曲して下方に向う長さ約〇・四糎の周囲に幅約〇・二糎の表皮剥脱を伴う創が分岐しており、この部の組織は挫滅状を呈しているが、それ以外には下(後)創縁も上(前)創縁も表皮剥脱を全く伴わず、極めて整鋭で微細な凹凸もほとんどない。上部の挫裂創の前端部と下部の挫裂創の前端部とは極めて浅い線状をなす裂創で連絡しているが、その周囲には皮下出血を伴っていない。下部の挫裂創の上(前)創縁には幅約〇・五糎(〇・二糎乃至〇・三糎)の、下(後)創縁には幅約〇・二糎(〇・一糎乃至〇・二糎)の表皮剥脱を、それぞれ全長にわたって伴い両創縁とも全長にわたって微細な凹凸があり不整で、軽度の挫滅をも伴っている。創洞は上部・下部の両挫裂創とも、下(後)方より上(前)方に向っており、下部の挫裂創の創洞は頭皮の最深層に達してはいるが帽状腱膜下結合織を離開せず、内面に創口はないが、上部の挫裂創は頭皮の全層と帽状腱膜下結合織を離開し、内面に最大幅一糎の外表面の創口の長さとほぼ等しい長さの創口を有している。両挫裂創の前端部を連絡する裂創(b―d)は真皮の最上層が離開しているのみで開放創を形成していない。

(2) 前記右頭頂部挫裂創に相当して、頭蓋穹窿部の右頭頂結節の下に、楕円形を呈する陥凹骨折が存し、その形状は別図(2)記載の様なものである。即ち、その長径を後上方より前下方におき、長径は約五・二糎・短径は約三・五糎、上(前)縁・下(後)縁とも弧をなして骨折縁は正鋭。上(前)縁の右頭頂結節に相当しては前後径約一・五糎・上下径約〇・五糎の小骨折片を付着し、半ば剥離して外方に突出している。この陥凹骨折の上(前)縁より前下方に向かい右側頭骨を横断して頭蓋底に入る線状骨折が存する。又右陥凹骨折の下(後)縁に(i点付近に)端を発して左後方に向かい右頭頂骨を人字縫合に平行して進行し、後端をわずかに屈曲させ矢状縫合の近くで終っている約五・二糎の線状骨折が存する。前記の前下方に向かう線状骨折は左後方に向かう線状骨折の延長線とほぼ一致する方向に走っており、従って右両線状骨折は陥凹骨折部を中間に挾んでほぼ一直線をなしている。更に前記頭蓋底に入る線状骨折の開始部(j点)より前方約一・五糎の鱗状縫合に端を発して右鱗状縫合の下部を前下方に進み、長さ約三糎にして鱗状縫合に連なり縫合離開を形成する全長約五・五糎の骨折が存する。又陥凹骨折上(前)縁に存する半ば剥離せる小骨片は、ほぼ中央部に於て二分せられ、さらにこの骨折片の上縁(v点)に端を発して彎曲して前下方に向かう約一・八糎(約二糎)の骨折線が存する。陥凹部の骨折は上(前)縁(n点)より下方一・五糎(一・二糎)の部(m点)に交差部をおく外面上の六条の骨折線によってなり(その内の二本は陥凹周縁に達していない。なお内面にも六条の骨折線が存するが外面上のそれと対応しないものもある。)、全体的に擂り鉢状態を呈し、交差部(m点)が最も陥凹してその深さは約一・五糎(約一・二糎)で、前後に走る骨折線は弧をなし長さ約三・五糎の弦を下方におき、これと交差する様にして前上方に向かう骨折線は長さ約二・五糎、交差部(m点)より後上方に向かう骨折線は長さ約一・五糎、交差部(m点)より下方に向かう骨折線は長さ約二・二糎である。各骨折片の陥凹の傾斜の深さを比較すると、m・q・lの各点を結ぶ骨折片が最も浅く、m・q・iの各点を結ぶ骨折片、m・i・sの各点を結ぶ骨折片の順で次第にその深さを増し、m・s・xの各点を結ぶ骨折片及びm・x・lの各点を結ぶ骨折片が最も深い傾斜で陥凹している。又l・jの各点の間は微細な骨折線がかすかに認められるだけで内板は離断していないが、その他は周囲の骨から内・外板ともに離断し陥凹して隙間を作っており、i・s・u・n・xの各点を結ぶ間で最も陥凹の度が深く、s点においては約一・二糎に達し頭蓋腔内に通ずる〇・七糎の隙間を作っているものの、l・jの各点を結ぶ間にむかって順次その隙間が狭くなり、i・k・o・q・l・j・xの各点の間においては骨折片の外板の陥凹は周囲の骨の内板よりも高位にとどまっているので頭蓋腔内と外界との間に隙間はない。そしてk・i各点の間の骨折縁には極めて幅の狭い外板表層の剥離があり、i・sの各点の間の骨折縁のs点寄りの半分には幅約〇・二糎の外板だけの剥離があって内方にまくれ込んだようになっており、それに続くs・u各点の間の縁でほぼ同じ幅に外板が剥離して現存せず、さらにそれに続くn・x各点の間の骨折縁では内側の骨折縁は鈍厚し外側の骨折縁は著しく菲薄となっている。なおt・v各点間の骨折線には長さ〇・一糎乃至〇・二糎位の頭髪が数本束になって嵌入しており、s・u各点の間の骨折縁の内板の断面には血液を混ずる脳実質が漏出し、その漏出した脳実質の表面に長さ約二糎の頭髪三条が付着していた。

(3) そして、前記両鑑定書及び検事豊嶋秀直他一名作成の昭和五二年五月一七日付「木村教授の所見について」と題する書面とを併せ考えると、頭皮に存する前記右頭頂部挫裂創と頭蓋穹窿部に存する陥凹骨折との対応関係は別図(3)の通りと認められる。

(4) 頭蓋底部に於ては、右中頭蓋窩に広く鶏卵大の凝血を付着し、前記陥凹骨折の前縁j点に端を発して頭蓋底に入る骨折線は中頭蓋窩の右側中央部を通り右中頭蓋窩の前縁に向かい右前縁に達して終り、その長さは右中頭蓋窩に於ては約七糎である。右鱗状縫合の離開部は頭蓋外板のみにとどまり内板に於ては骨折・離開は存せず、頭蓋底の硬脳膜には損傷はなく、左右錐体に約鳩卵大の出血・トルコ鞍部の前縁に沿って左右径約三糎・前後径約一糎の頭蓋底部の骨質内の出血がそれぞれ存する。

(5) 頭蓋の内部は、右半球の硬膜下に広く薄片状をなす硬膜下血腫があり、その大きいものは長径七糎・短径五糎・厚さ〇・五糎、軟脳膜は菲薄滑沢、脳血管の充盈は左右半球とも極めて高度であり、大脳右半球の穹窿面は殆んど全面にひろがる高度のくも膜下出血を存する。前記陥凹骨折に相当して長径約四・五糎・短径約一糎の開せる挫滅部があり、周囲は前後径約五糎・上下径約七糎にわたり高度の脳挫傷を存し、蚤刺大・粟粒大・米粒大・大豆大等の多数の脳挫傷の集簇より成る。大脳左半球も殆んど全面にひろがる軽度のくも膜下出血を存し、左右半球とも脳腫脹高度にして、脳回は扁平となっている。右半球の頭頂葉より後頭葉にかけては水腫高度、小脳背側・小脳腹側の血管の充盈は極めて高度で小脳背側には広くくも膜下出血を存す。延髄の腹側には空豆大の凝血を付着し、右側の小脳扁桃は指頭大にわたり出血している。そしてホルマリン固定後の精検によれば、硬脳膜の右側に、前記陥凹骨折に相応して、後上方より前下方に向かう長さ約三・八糎前後でその辺縁部は鋸歯状をなし陥凹骨折の陥凹せる骨折片の上縁ならびに前縁に相当して形成された裂創が存する。大脳表面の血管は充盈高度、左半球の中心前回には粟粒大・半米粒大の脳挫傷数個散在し、右半球に於ては右中心後回並びに右側頭葉上回にかけて前述の高度の脳挫傷集簇し、その中央部に挫滅部を存する。その挫滅部の表面には異物の付着はなく、深さは約一糎前後、右側頭極には米粒大・半米粒大等の脳挫傷集簇する。(左右大脳脚を切断して中脳断面を検すると)中脳水道上部に米粒大の出血を存し、中脳水道内にも凝血を容れる。大脳底部の右外側後頭側頭回・右側頭葉下回にも半米粒大の脳挫傷が数個散在し、右海馬回鈎には半米粒大の出血が存し、天幕截痕を存して脳ヘルニヤを形成する。(乳様体を通る前頭断を行うに)右大脳半球は高度に腫脹し、右側脳室は左方に偏して狭隘となり、左側脳室は拡張している。(小脳扁桃より延髄腹側にひろがる出血部に割を加えて検するに)右側小脳扁桃に於ては内部に大豆大の出血二個を存し、延髄腹側の表面は広く出血す。(橋の中央を通り小脳後縁に至る水平断を行うに)橋内部には粟粒大・蚤刺大等の多数の点状出血散在し、第四脳室内にも凝血を容れる。右小脳歯状核には米粒大・半米粒大の点状出血が数個散在する。(延髄を横断して検するに)粟粒大の点状出血が二個散在した。

(二)  鑑定人木村康(千葉大学医学部法医学教室教授)は、東山薫の死体解剖を担当したものであるが、同人作成の昭和五二年五月三〇日付鑑定書並びに補足説明書・検事豊嶋秀直他一名作成の昭和五二年五月一七日付「木村教授の所見について」と題する書面・当庁民事部が実施した右木村康に対する証人(尋問)調書謄本(昭和五二年(ワ)第四五八号事件第六回及び第八回口頭弁論期日)等(以下木村鑑定書等と略称する)によると、

そもそも頭蓋穹窿部において、四糎×四糎(一六平方糎)以内の陥凹骨折が出来たときは、外力が加わったところに相当して形成される直接骨折である場合が多いことは法医学の定説であり、従って、その骨折の形状から成傷器の作用面や形状が判断できるところであるが、この直接骨折であるか、あるいは直接外力が加わった部分の周辺にそれにより生じた撓みにより発生した間接骨折(随伴骨折)であるかは、必ず頭皮表面の傷と対比して判断しなければならないものであるところ、本件損傷については、右(一)記載の骨折のm点(別図(2))は頭皮の挫裂創のh点(別図(1))に該当し、上(前)部骨折縁(別図(2)のi・n・jの各点を結ぶ線)は頭皮の挫裂創の上(前)部挫裂創(別図(1)のa・f・h・bの各点を結ぶ線)に相応しており、成傷物体が右h点に後述の如く斜めに衝突して右m点を形成し右上(前)部骨折縁を発生せしめたと認められるので、これは直接骨折であり、下(後)部骨折縁(別図(2)のi・k・o・q・l・j)は頭皮の挫裂創の下(後)部挫裂創(別図(1)のf・c・g・dの各点を結ぶ線)に相応し、右挫裂創のうちの表皮剥脱が認められる部分(別図(1)のc・gdの各点を結ぶ線)に相応する右骨折縁部分は二次的に外力が加わったことによって発生せしめられたと認められるので、この部分も又直接骨折というべきものである。(しかし、上((前))部骨折縁に端を発してその上((前))部に存する骨折線((別図(2)t・v・wの各点を結ぶ線))や、前記陥凹骨折の下((後))縁に((別図(2)i点付近に))端を発して左後方に向かう骨折線・上((前))縁より前下方に向かい頭蓋底に入る骨折線などは間接骨折((随伴骨折))と認められる。)そして、右の様に直接骨折であることを前提として、前述の陥凹骨折の辺縁部から判断すると作用面が鈍円形又は鈍稜を呈しているものが考えられ、又頭皮表面の上(前)部挫裂創のほぼ中央にある前記h点に小裂創と表皮剥脱が形成されて挫滅状を呈しており、別図(3)の様にこれに該当する陥凹骨折部の前記m点がもっとも深く陥入していて、陥凹する骨折片には、そのm点を中心に放射状に走る亀裂骨折が走っていることからすると、作用物体は先端が突出している鈍体が考えられる。そして頭皮表面の下(後)部挫裂創の別図(1)のc・g・dの各点を結ぶ部分には表皮剥脱が強く生じていることと、陥凹骨折は前述の様に別図(2)のi・s・u・n・xの各点を結ぶ部分が深く陥凹しており、i・k・o・q・lの各点を結ぶ部分は陥凹の度合が浅く、もっとも深く陥凹している亀裂骨折の交差部に垂直な線をたてると頭蓋穹窿面に対しほぼ四五度となることから、突出部が鈍円状又は鈍稜をなす円筒形の物体が頭蓋穹窿面に対しほぼ四五度・矢状面に対し三〇度の角度で後ろ下の方から前上方に向って嵌入したものと推断される。そうすると下(後)部骨折縁から陥凹骨折の中心部までの長さ(別図(2)のo・mの各点を結ぶ線の長さ)は約二糎であり、頭皮表面の下(後)部挫裂創から上(前)部挫裂創の挫滅部までの長さ(別図(1)のg・hの各点を結ぶ線の長さ)は約一・八糎で、ほぼ一致しているので、右の様に突出部が鈍円状又は鈍稜をなす円筒形の物体が、その突出部で上(前)部挫裂創の挫滅部(右h点)を強打して前記陥凹骨折を生ぜしめ、上(前)部骨折縁は右打撃により引張られて延張して来た頭皮に内部から嵌入して上(前)部挫裂創を形成し、下(後)部挫裂創は右円筒形物体の曲面と下(後)部骨折縁とにはさまれて弧をなす曲面をあらわす挫創を形成し、且骨折片の嵌入により頭頂葉を挫滅し、更に反対打撲により延髄を軸とする脳の回転を生ぜしめて右側小脳扁桃・延髄腹側右側に広く脳挫傷を形成したものと推測される。その成傷器である右物体は、頭皮の損傷部の計測値から計算すると、その円筒の直径は約三・八糎前後であるが、打撲の方向は前述の如く頭蓋穹窿面に対して約四五度と推測されるので、円筒の曲面は斜めに作用したことになるから実際の円筒形の直径は三・八糎以下になる。そして、その様な成傷物体を考えると、円みを帯びた石塊によっても前記の程度の陥凹骨折を発生せしめることは可能ではあるが、その作用面が四糎×四糎(一六平方糎)以上の時は内側に亀裂骨折を持つ同心円状の骨折を生じ、頭皮には不規則な裂創が形成されその表皮剥脱・皮下出血も不規則なものとなり、その作用面積が四糎×四糎(一六平方糎)以下の時は不規則な形状の表皮剥脱・皮下出血あるいは小挫裂創が頭皮に形成され、頭蓋骨はやや円形を呈する辺縁が不規則な陥凹骨折が形成されるのが普通であり、一般的には本体の損傷とその形状を異にする。又旧型と呼ばれるP一〇〇L型ガス筒・S一〇〇L型ガス筒は、長さ二〇糎乃至二一糎・直径三・五糎・輪状をなす先端の厚さは〇・一糎乃至〇・二糎であり、その輪状をなす先端がそのまま衝突した場合には、頭皮には輪状の表皮剥脱乃至皮下出血が形成され、頭蓋骨にも骨折片の中に縦に走る亀裂骨折をもつ円形の陥凹骨折が形成されるものであり、斜めに作用した場合は横に走る挫裂創が作用部に隣接して形成され、内部には円形の骨折が形成されるものであるから、いずれも本件損傷とその形状を異にするのみならず、このガス筒を四五度の角度で切断した際の長径の長さは四・一糎となり、本件陥凹骨折の陥凹部はこれより小さく内部への嵌入は出来ないので、結局この種のガス筒によっては本件損傷は不可能と判断されるところである。しかし、新型ガス弾と呼ばれるM三〇P型ガス筒・模擬弾と呼ばれるM三〇型筒は、その形状が類似しており、M三〇P型ガス筒の計測値は長さ一四・六糎・円筒の直径三糎・先端の半球状の突出部の長さ一・八糎であり、四五度の角度で切断した際の長径の長さは三・五糎で、その形状から判断すると本件の損傷をもっとも形成し易いものであり、実際に本件の頭蓋骨折部と照合してみると、矢状面に対する角度が三〇度の場合は良く骨折部と一致するので、本件損傷の成傷物体は新型ガス弾(M三〇P型ガス筒)・模擬弾(M三〇型筒)である可能性が大きいものである。

と述べているところである。

(三)  松倉豊治(大阪大学名誉教授・兵庫医科大学教授)は、前記民事事件に関して、千葉県の嘱託に応じ、右の木村鑑定書等のうちの鑑定書並びに補足説明書に対する意見として提出した昭和五二年一二月八日付意見書及び当庁民事部が実施した右松倉豊治に対する証人(尋問)調書謄本(前記事件第七回及び第九回各口頭弁論期日)等(以下松倉意見書等と略称する)において、

本件損傷の頭皮表面の挫裂創と頭蓋穹窿部の骨折の位置関係を別図(3)の様に想定すると、成傷物体の突出部が衝突し、別図(2)のm点を中心とする陥凹骨折を作り、それに相応して頭皮表面に別図(1)のh点の挫創を形成し、その上下方向に多少不整形な挫裂創を作ることはあり得るが、先端部が半球状又はそれに近い鈍円錐状をなしている鈍体が衝突した場合、先端部から側壁への移行部(いわゆる肩部)がなだらかに彎曲する曲面をなすときは、その部分が独立して挫裂創を作ることは無く、作るとすれば、それは先端部による挫裂創がその肩部への移行に伴って拡大されたものにすぎないものであるから、成傷器物がそのまま内部に穿通しない本件の場合、それ以上に本件の様な表皮剥脱を伴う上後方向及び下前方向をあわせると約四糎に近い上(前)部挫裂創が形成されるということはやや不適当であること、また右上(前)部挫裂創が、上(前)部骨折縁が内部から頭皮に嵌入して形成されたとすることは、その位置関係から理解し難く、仮りに右上(前)部挫裂創が当該頭皮部分が上(前)部骨折縁の位置まで移行してその様に形成されたとすれば、下(後)部挫裂創の存する頭皮部分もそれに伴い移行することになり、その発生原因の説明と矛盾すること、下(後)部挫裂創が成傷物体の曲面と下(後)部骨折縁とにはさまれて形成されたとすることは一方が曲面で加圧力が平等でないことと、他方が既に骨折を来たしているのでその固定状態(支持)が安定でないことからして、これ又長さ三・一糎の、しかも幅広い表皮剥脱を創口の周辺に持つ挫裂創を作るほどの挾圧が加わることは考え難いので、その形成に関する木村鑑定人の意見は肯定し難いこと、上(前)部挫裂創と下(後)部挫裂創の形成理由が木村鑑定人の意見の通りとすると、それぞれの創壁の向きが同一であることは理解し難いこと等々の疑問を呈示したうえ、前述の如く打撲物体が球状又は鈍円状の先端をもって皮膚を打撲したにすぎない場合には、その先端に相当する部を中心とする陥凹亀裂骨折を作るとともに、その器物の幅径よりやや広い範囲で間接的圧曲骨折(間接骨折)を作るが、その皮膚上には挫創を作ることはなく、もし作るにしても中心に軽度の挫創を作るにすぎないものであること、接触面が幅広くかつ複数の角稜部を持つ物体が打撲した場合には複数の挫裂創を作るとともに、角稜接触部の直下に直接的破裂骨折を生ずる場合、あるいは、その接触部より少し離れたところに間接的屈曲骨折を生ずる場合がみられること、右と類似しかつ角稜部の中間に凸隆部があると、この凸隆部がさほど強くなくても、それの圧迫によって前記骨折の中間部に陥凹骨折又は陥没骨折を生じ、その陥凹・陥没部分には、しばしば亀裂骨折を伴うものであること、四糎×四糎(一六平方糎)以下の陥凹骨折があった場合、それは必ず直接陥凹骨折とは言い難く、間接陥凹骨折の場合もあり得るものであり、又作用面が四糎×四糎(一六平方糎)以上の物体の作用によっても事例上陥凹骨折がしばしば生じていること、もっとも深く陥凹した骨折片に垂直な線をたてて作用方向を推定することは、該骨折片の偶然的な陥凹状態を前提とするものであるから無意味であること等を前提として、本件損傷が新型ガス弾(M三〇P型ガス筒)・模擬弾(M三〇型筒)の様な先端部が半球状をなして突出している円筒形のもので形成されたとすることには疑問があり、頭皮表面の挫裂創を頭蓋穹窿部の陥凹骨折からほぼ等間隔を保つ位置に想定し、接触面が幅広く複数の角稜部を持つか、又はその角稜部の中間に凸隆部を持つ物体が直上又は斜め上方から衝突したとすれば、頭皮表面に、別図(1)のh点を含む上(前)部挫裂傷及び下(後)部挫裂創が存し、頭蓋穹窿面に、直接陥凹骨折と認められる陥凹骨折部中央の亀裂骨折・間接陥凹骨折と認められる上(前)縁及び下(後)縁の骨折・随伴骨折と認められる陥凹骨折縁から前下方と後上方に向う骨折線がそれぞれ認められる本件損傷の発生機転を適切に説明し得るものであり、かかる物体には、どこにでもある粗面凹凸の石塊も該当するので、なお成傷物体が石であることの可能性について検討を要する旨述べているところである。

(四)  鑑定人齊藤銀次郎(東海大学医学部法医学教室教授)は、前記木村康鑑定書及び補足説明書を資料として鑑定をなし作成した昭和五三年一月二〇日付鑑定書(以下齊藤鑑定と略称する)において、頭皮表面の上(前)部挫裂創の挫滅部(別図(1)のh点)が突出したものに強打されて頭蓋穹窿面の陥凹骨折の中心部(別図(2)のm点)が最も深く陥凹したことは容易に理解されるところであるが、右挫滅部から下方に延びる小裂創の長径は〇・四糎で、右陥凹骨折の中心部(別図(2)のm点)と陥凹骨折の上縁との距離(別図(2)のm点とn点又はm'点とn点)は一・五糎又は一・三糎であるから、上(前)部挫裂創が陥凹骨折の上縁と連絡することは考え難く、この長径四糎の弧をなす上(前)部挫裂創は陥凹骨折の中心部(別図m点)を前後に走り弦を下方におく弧状を呈する長さ三・五糎の亀裂骨折と、その形状がほぼ一致し、長さも大きな差異がないので、この亀裂骨折に一致して生じたものと考えるのが妥当性がある様に思われるところであり、おそらく陥凹骨折の中心部(別図(2)m点)を前後に走る部に鈍稜が作用し、中心部が特に突出していたために陥凹が最も深かったものと考えられること、陥凹骨折の様な場合、その一辺が頭皮に嵌入して内部から頭皮表面に挫裂創を生ずることは、例えば頭部が重量のあるものに轢圧されるなどして頭蓋骨が複雑粉砕骨折したような場合以外は考え難いこと、本件の様な陥凹骨折は、経験例に徴し、外力の直接作用によるものでなくとも、間接的作用によっても生ずるものであり、従って木村鑑定人のように、本件陥凹骨折が外力の直接作用によって形成されたとして、その成傷物体を「先端が突出していて周囲は円筒状をなしているもの」と推測することは出来ず、円筒状のものであれ、そうでないものであれ、攻撃面に鈍稜の突出部があれば生じ得るものと考えられること、作用した鈍器の重量・形状・作用力の強弱・突出部(攻撃面)の突出の程度並びに性状などによって陥凹骨折の中心部が深い場合もあるし、浅い場合もあるので、陥凹骨折において陥凹の中心部と頭蓋穹窿面とのなす角度を測定し、鈍器の作用方向を推測することは妥当性がないものと考えられ、従って、右測定の結果をもって鈍器の作用方向を頭蓋穹窿面に対し約四五度とすることは無意味と思われること、本件陥凹骨折の中心部(別図(2)のm点)の深さは木村鑑定書によれば一・五糎もあるというものであるところ、先端が鈍円のものであれば頭皮に直角に打撃したとしても、その様に深く中心部が陥凹するとは考え難く、先端部が鈍稜のものでしかも突出部のあるようなものによって生じたとする方が妥当性がある様に考えられること、また木村鑑定書のように、頭皮上の下(後)部挫裂創は、円筒状の成傷物体の曲面と頭蓋穹窿部に存する陥凹骨折の下(後)縁にはさまれて弧をなす曲面をあらわす挫創を形成したものとし、その下(後)部挫裂創の計測値からその円筒状の成傷物体の直径を三・八糎以下と算定することは、その陥凹骨折が直接的作用によって形成されたもの(直接骨折)であるならば妥当性を有するものではあるが、前述の如く本件の陥凹骨折が間接的作用によっても生じうることからすると、右の様な計測・算定は全く意味がないのみならず、成傷物体の曲面と楕円形の陥凹骨折の下(後)縁にはさまれて下(後)部挫裂創が形成されたとするならば、頭皮内面にも右骨折縁に相当した何らかの損傷が認められて然るべきであるにもかかわらず、前記木村鑑定書や補足説明書にはその様な記載がないこと、頭蓋の後下方から前上やや左前に向って鈍力が作用して挫裂創ができたとすれば、その挫裂創の創縁の下部ないし後部の頭皮表面にできる表皮剥脱の幅の方が広いのが妥当であると考えられるところ、本件の頭皮の下(後)部挫裂創の創縁には上部ないし前部に広く表皮剥脱が形成されており、更に本屍においては、主として大脳底部の右直回・右眼窩回・右側頭極(脳底部)・右外側後頭側頭回・右下側頭回(脳底部)並びに右側小脳扁桃などに 対側打撃によるものと思考される脳挫傷が認められ、かつ又上(前)部・下(後)部の各挫裂創の創洞は、いずれも下前方に向かっていることなどから判断して、鈍力が上やや後方から下やや前方に向って、右頭頂部に作用したと考える方が妥当性があるように思われること、不規則な形の稜角部を有してその一部に突出部がある石塊で打撃することによっても、その突出部が陥凹骨折の中心部に最も深い陥凹を生ぜしめるとともに、間接的にその辺縁部に楕円形の陥凹骨折を発生せしめ、不規則な稜角部によって複雑な挫裂創を形成せしめることが可能と考えられること、新型ガス筒のように先端部が鈍円状を呈しているものが四五度の角度で作用した時には容易に滑走するものと考えられること等を前提とし、結論として、前記損傷は、攻撃面に稜角を有しその一部が特に突出している硬固な鈍体(例えば石塊)の打撃によって生じたものと推定され、打撃方向としては、上方(やや後方)から下方(やや前方)に向って、右頭頂部を強く打撃したものと推定される旨述べているところである。

(五)  鑑定人錫谷徹(元北海道大学医学部法医学教室教授)は、前記木村鑑定書等・松倉意見書・齊藤鑑定書・東山薫の頭蓋骨及び頭皮・旧型ガス筒並びに新型ガス筒及び模擬筒などを資料として鑑定をなして作成した昭和五五年一月一四日付鑑定書、同鑑定人に対する昭和五五年五月八日付証人尋問調書(以下錫谷鑑定書等と略称する)において、頭蓋に四糎×四糎(一六平方糎)よりも小さな物体が接触した場合、その物体の形状に応じた骨折を生じ、その骨折の性状・形態から成傷物体を推認することが出来るとの考えは確たる学説ではなく、頭部の球の彎曲度からいうと、平面に接触する面積はおよそ四糎×四糎(一六平方糎)位のことが多いので、その面積以下の物体が接触すると、その接触面通りの作用を頭皮・頭骨が受けるが、それよりも広い攻撃面の作用を受ければ四糎×四糎(一六平方糎)しか接触できず、接触物体の攻撃面積そのものの形が作用しないということのみであり、従って、成傷物体を考える上においては大きな意味を持つものではないこと、本件頭蓋穹窿部に存する陥凹骨折は、ほぼ楕円形で、その長径の延長線上に上縁と下縁から(別図(2)のi点付近及びj点から)長い線状骨折が各一条派出しているのが認められ、頭蓋骨の広い面に鈍体が作用するか、あるいは狭い面でもその外力が極めて強く作用した場合には、頭蓋骨全体あるいはその広い範囲が外力の作用方向に圧迫されて扁平化し、外力の作用方向と直交する方向、つまり周囲に拡伸しその伸びた方向に直交して骨折が発生し、その結果外力の作用点を中心にしてほぼ放射状に骨折線ができ、線状骨折あるいは亀裂骨折を形成する(破裂骨折)ものであるから、この二条の線状骨折を結ぶ線上の骨表面に対して垂直か、ほぼ垂直に近い角度で外力が作用したと認められること、そして、この陥凹縁に垂直の方向に線をたてると、本件頭蓋骨の後面観では水平面に対して約一五度の角度をなして右上より左下に向かい、上面観では矢状面に対して約六〇度の角度をなして右後より左前に向かっていること、本件陥凹骨折の周縁の輪郭は全体として楕円形であるが、上部を占める大部分は円形に近似しており、頭皮表面の下(後)部挫裂創の別図(1)のc・g・dの各点を結ぶ創の長さは三・四糎であり、頭蓋穹窿部の陥凹骨折の下(後)部縁の別図(2)のk・qの各点を結ぶ円弧の長さは三糎で、頭皮の創とその直下の骨折縁とは位置も長さもよく一致し、しかも、右の創部分の全長の創縁には表皮剥脱を伴っており、表皮剥脱は鈍体が作用した部位にだけ発生し、挫創は皮膚・皮下組織の直下に骨の存在する部位に外来の鈍体と骨との間に強く挾圧されて発生し易いものであることを考えると、右陥凹骨折縁のうちの別図(2)のk・qの各点を結ぶ円弧部分は直接的屈曲骨折と考えられ(別図(2)q・l・jの各点を結ぶ骨折縁は、その形からみて間接的屈曲骨折であることはほぼ明らかである)、これを惹起した成傷体の部分は、右k・qの各点を結ぶ円弧部分に適合する凸出した円弧であると断定されること、右陥凹骨折の別図(2)のk・iの各点を結ぶ骨折縁には極めて幅の狭い骨の外板の剥離があり、これに続いて別図(2)のs・uの各点迄の骨折縁には、これと別図(2)のt・vの各点を結ぶ幅の狭い矩形の骨剥離部があり、内部に向って落ち込んだ形となっていて、右v点から別図(2)のw点に走る骨折線を随伴しており、これらのことは、別図(2)のk・iの各点を結ぶ円弧部分では成傷物体がこの骨折縁にその上にある頭皮を介して嵌入し、別図(2)のs点を中心とする矩形骨剥離部では成傷体は骨折縁をわずかに越えてはみ出し、しかも別図(2)のt・vを結ぶ弧以内に納まる程度で、この部分を押し込むように内部に向って嵌入したものであることを意味しており、これらを総合すると成傷物体は別図(2)のq・k・i・s・uの各点を結ぶ骨折縁に頭皮を介して密着する形であり、この骨折縁の形がほぼ半円形であることから、陥凹口の面における成傷物体の作用部の横断面は半円形を含むものであったと推定され(しかし、半円以外の部分の形は不明)、そうすると、その半円の直径は、その上に被っている頭皮の厚さを含め別図(2)のr・oの各点を結ぶ直線の長さにほぼ近似しているはずであること、本件陥凹骨折の内部に陥凹した骨片は、別図(2)のm点を中心にしてほぼ等間隔に六条の骨折線を放射状に放出しており、このm点が最深部となり、これを頭蓋冠内面からみると、低い円錐形かむしろ低い球形に見えるので、右の様な骨折線を発生させた力の方向は各骨折線に対して直交する方向であり、右六条の骨折線のすべてにそれと直交する力が作用したということは、全体としてみると、この陥凹骨折片を均等に周囲に向って押し拡げたこととなり、この陥凹骨折部分に頭皮を被って嵌入した成傷物体は先端がやや狭く底辺に行く程太くなる物体で、しかもその周囲はどの部分も均等同形なもの、換言すると、その断面は円形かそれに近いものであり、これと前述の陥凹口の面における成傷物体の横断面には半円形を含むとの推定を併せ考えると、成傷物体の嵌入部つまり成傷物体の作用部は半円形か半円形の一部分と推定せざるを得ないこと、陥凹している骨折片群は別図(2)のl・jの各点間の部分では内板だけで周囲の骨と連絡していて、同部分が最も高く、その対側の別図(2)のs点付近を最深部とするi・s・u・n・xの各点を結ぶ円弧は深く陥凹し、その陥凹の深度・傾斜には差が存するものではあるが(成傷物体の作用方向・作用角度もそれを決定する因子とはなり得るものの)、そもそも頭蓋骨は部分により骨質に厚薄の差があり、穹窿面(表面)にも彎曲の差があり、質も形も必ずしも均質ではないので、たとえ均等な断面の成傷物体が表面を垂直に打撃しても、その点を中心にして周囲に均等に骨折が波及するとは限らず、前記推定のさまたげとはならないこと、本件頭皮表面に存する上(前)部の創は、別図(1)のh点を中心にして約〇・四糎の範囲内の部分にのみ創縁の表皮剥脱・創縁の分岐・組織の挫滅があり、その他の部分では創縁に微細凹凸もなく整鋭で表皮剥脱・挫滅を全く伴っていないので、この両部分は全くその性状を異にし、右h点を中心とする部分は頭皮が外部からの鈍体と内部の頭蓋骨との間に強挾されて形成された挫創であり、その余の部分は、この上(前)部の創が頭蓋穹窿部の陥凹骨折のほぼ中央部の上方に存し、頭皮上の別図(1)のh点の位置は陥凹骨折部の中心である別図(2)のm点の位置とほぼ一致していることから、右h点に細い鈍体が作用してこの部分の頭皮が内部に向かって立体的に伸展し、その伸展性の限界を超えて離断した典型的な裂創であると考えられること、右の如く頭皮表面の上(前)部の創の別図(1)h点の挫創は、その直下にある骨と成傷物体との間に挾圧されて挫滅して発生したものであるから、成傷物体の先進する先端が、この部に衝突したものであり、別図(1)のa・kの各点間の創の長さは二・〇五糎であり、同b・hの各点間の創の長さは一・九糎(木村鑑定書によれば、いずれも二糎)で、右h点は上(前)部の創の中心部をなしているものであるから、成傷物体は、その先進先端からみて両側面は対称的な形態のものであり、このことから成傷物体の運動方向は頭部の内部に向ってほぼ垂直に近い方向であったと推定されること、前述の如く上(前)部の創の前記h点の周囲を除いた部分は裂創であり、この裂創を惹起した力の作用方向はこの裂創に直交する方向と考えられるところ、成傷物体の嵌入した部分が先端と等しい径のものであるならば、その運動方向に直交して作用する力は先端面においてのみ作用し、それ以後の部分では運動方向に作用する力だけとなる筈であるが、本件の様に先進先端から離れた辺縁部までも力が運動方向に直交して作用することは成傷体が前進嵌入するにつれて成傷物体の径が漸次大きくなることを意味し、前述の陥凹した骨折片の性状から成傷物体を半球か半球の一部分と推論したことと矛盾しないこと、頭蓋骨穹窿部の陥凹骨折は最深部(別図(2)のm点)を中心にして六本の放射状の骨折線が発生しているのに、頭皮には別図(1)のh点を中心にした一本の裂創しか発生せしめていないのは、頭皮は頭蓋骨よりも伸展性・収縮性・移動性が遥かに大きいため一本の裂創が発生すれば頭皮を拡げようとする力を相殺し得るものであり、この裂創の走行が直線ではなく一部で屈曲しているのは、裂創の発生した時にはこの部の頭皮が立体的に陥凹していたものが、裂創発生後平面に復したため、裂創は屈曲することによって、もとの長さを保っているためと考えられ、前述のところと矛盾するものではないこと、頭皮表面の下(後)部の創のうちの別図(1)のc・g・dの各点を結ぶ円弧の部分には、両創縁ともその全長にわたって表皮剥脱を伴っているので、その全長にわたり鈍体が強く接触したものであることは確実であり、創縁は微細な凹凸を持ち不整で軽度の挫滅をも伴っているので、少なくともその全体が挫創であることは明らかであるが、この創の創洞が上(前)方、即ち別図(1)のh点の方を向いてはいるものの、その深さはわずかに〇・八糎前後であるから、これをもって右の創に裂創が加味されているということはできないこと、右c・g・dの各点を結ぶ円弧の創はその真下の骨折縁と成傷物体とに挾圧されて発生したものであるが、その際この部分の頭皮は成傷物体の表面に密着していたが、成傷物体が去って頭皮が平面状に復するとともに創の形は拡がり円弧は低い円弧になって、その円弧の弦は創の発生時よりも長くなり、従ってその弦の長さ(即ち別図(1)のc・dの各点を結ぶ直線の長さ)をもって、その創を発生せしめた成傷物体の大きさは直接計算できるものではないが、上(前)部の創(別図(1)のa・h・bの各点を結ぶ創)と下(後)部の創(同c・g・dの各点を結ぶ部分の創)は、別図(1)のa点乃至c点・c点乃至f点・d点乃至b点でごく浅い裂創で連絡されているので、右二つの創が同一の成傷物体の同一作用部によって同時に惹起されたものと推定できる確率が大きいこと、頭皮表面の上(前)部・下(後)部の各創と頭蓋穹窿部の陥凹骨折の位置関係はほぼ別図(3)の様な関係にあるものと認められるところ、下(後)部の創の右c・g・dの各点を結ぶ円弧の部分と陥凹骨折の下縁との間隔は約〇・五糎であり、頭皮の厚さは〇・五糎乃至〇・八糎であるから、右c・g・dの各点を結ぶ部分の創は〇・五糎程度の厚さの頭皮を介して陥凹骨折の下(後)縁の別図(2)のk・o・qの各点を結ぶ骨折縁の上面にあったことになり、この点からも前述の下(後)部の創のうちの別図(1)のc・g・dの各点を結ぶ部分の発生機転に関する推定の正当性を説明し得ること、頭皮表面の上(前)部の創の別図(1)のf・h・bの各点を結ぶ部分は内創口があり、この部分の創の創壁が上(前)方に向かっており、あたかも陥凹骨折の上(前)部縁が内部から刺入したかの様な印象を与えるが、この内創口に続く創壁は現在血腥をなす帽状腱膜下結合織であって、この結合織は受傷の瞬間は未だ血腥を形成せず厚さを無視し得る程度に薄いものであったはずであり、一般に創洞の傾斜だけで裂創とか刺創とかを推定することは、長い創洞についてのみいい得るところであって、厚さが〇・五糎乃至〇・八糎程度の頭皮の内部においてだけに認められる創洞の傾斜では不適当であり、又上(前)部の創が陥凹骨折の上(前)部縁によって形成されたとすると、上(前)部の創の存する頭皮部分が陥凹骨折の上(前)部縁の位置まで移動しなければならないが、そうなると、下(後)部の創も陥凹骨折の下(後)部縁から著しく上(前)方に移動してしまい、前述の下(後)部の創の発生機転がなくなってしまうことからも成立し得ないこと、頭皮表面の上(前)部の創は頭蓋骨穹窿部の陥凹骨折の上(前)部縁によるものではないことは右の通り明らかであり、従って、頭皮表面にその陥凹骨折の上(前)部縁に相応する創は認められないこととなるが、それは成傷物体が頭皮を介して頭蓋骨に接触したもののここでは骨の離断は成傷物体との接触線よりやや内側(別図(2)のm点寄り)に発生したため、それより外側の骨は内部(深部)に向けて圧迫され、その結果、外板だけが剥離する程彎曲して鈍円な縁となって、そのために剥脱も発生しなかったものと考えられ、又別図(2)のj点から下方に向かう線状骨折が、成傷物体が頭蓋骨に嵌入した時には、現存するよりも広く開いて陥凹骨折の上(前)部縁と成傷物体との間の圧力を滅じたこともその一因となったものと考えられること、頭皮表面における表皮剥脱の発生部位は、その下層の骨に向かって特に強く圧迫された部分にだけ発生しており、その他の部分では成傷物体が接触したと考えられるのに表皮剥脱は発生しておらず、従って成傷物体の表面は粗ではなく、むしろ滑らかであったと推定されるが、頭皮創傷と頭蓋骨々折の性状と程度からみて、成傷物体は硬鈍体であったことは疑う余地がないこと、本件頭蓋穹窿部の力の作用点の直下の脳挫傷は、前記の様に右中心後回と右上側頭回にあり、左側には中心前回にだけ脳挫傷があり、この左右の脳挫傷を結ぶ方向がおよその力の作用方向であるが、これは前記の陥凹骨折存在部の骨表面(穹窿面)に垂直の方向にたてた線の頭蓋内への延長線が左中心前回のやや下方に向っていることとよく一致していること、本件頭蓋穹窿部の陥凹口の直径を別図(2)のn・oの各点を結ぶ直線の長さ三・五糎ないし別図(2)のq・o・k・i・t・vの各点を結ぶ円の直径四糎との間の数値とし、頭皮の厚さを〇・五糎乃至〇・八糎の間の数値として、これを基礎に成傷物体の球の半球直径を計算すると、二・二糎から三・五弧までの範囲内となり、この半球直径を基礎として皮膚表面より陥凹底までの球表面の弧の長さを算出すると半球直径が二・七糎以上では二糎以上となり、半球直径が二・六糎以下では一・九糎以下となるが、球面が全部頭皮陥凹部に嵌入し終るよりも以前に裂創が発生したことも考えられ、球面の底縁つまり頭皮表面の線迄の全長にわたって破裂するとは限らず、また裂創発生後成傷物体が去った後もこの平面に復した時に収縮することもあり得ることなどの点を考慮すると、頭皮表面より陥凹底までの球表面の弧の長さは、頭皮表面の上(前)部の創の別図(1)a・hの各点を結ぶ創、b・hの各点を結ぶ創の各長さより短いことはあり得ず、従って、半球直径は二・六糎以上となること、これらを総合すると、成傷物体は、その作用部は半球あるいは半球の一部と推定され、その直径は二・七糎乃至三・五糎即ち三・一糎プラスマイナス〇・四糎で、その成傷機転は、右のような表面滑らかな球頭の硬鈍体が、頭皮創傷・頭蓋骨陥凹骨折が存在する部分の表面に対してほぼ垂直の方向で激突してこれらの損傷を惹起したと推定され、頭部全体についてみると、この方向は右後上より左前下の方に向かう方向であること等を前提として、さらにその成傷物体について検討をすすめ、人力による投石によっても前記損傷は形成し得るが、直径三・一糎プラスマイナス〇・四糎の球形の作用部つまり突端を持ち表面が滑らかな石は存在する可能性はあるものの、右の条件を充たす石の存在率は非常に小さいと考えられ、また旧型ガス筒はその直径が三・六二糎であり、前記の通りほぼ垂直に衝突したとすれば、頭皮の厚さを〇・五糎としてもその直径は四・六二糎となり、頭蓋穹窿部に存する陥凹骨折の直径は三・五糎乃至四糎しかないので、かかる損傷を惹起することはあり得ず、いずれも本件の成傷物体とはなり得ないが、新型ガス筒・模擬筒はいずれもその先端はプラスチック製で半球状をなしており、その球の直径は約三糎で、この様な物体が頭皮創傷・頭蓋骨陥凹骨折存在部表面に対して、垂直か垂直に近い角度で衝突(この様な球頭の物体が斜めの角度で衝突したとすれば表面を滑動するだけで、皮膚・骨に本件の様に深く嵌入することはほとんどあり得ない。)したとし、頭皮の厚さを〇・五糎から〇・八糎として、その間の各数値ごとに計算し、別図(2)と対比してみると、いずれの場合も全く前述のところと矛盾するところはなく、その陥凹の性状も頭皮の創傷についても、説明し得るものであるとして、結論として、前記の損傷を惹起した成傷物体の作用部は半球あるいは半球の一部と考えられ、頭蓋骨陥凹骨折・頭皮創傷・頭皮の厚さ等の実測値から計算した結果、その半球の直径は二・七糎乃至三・五糎の表面滑らかな球頭を持った硬鈍体と推定され、かかる成傷物体が本件損傷部位にほぼ垂直に激突したものであるが、その方向は頭全体についてみると右後上より左前下の方に向かっているものであり、新型ガス筒・模擬筒は、前記損傷を惹起した成傷物体として、その損傷所見と極めてよく一致し矛盾するところは全くなく、従って、ほとんど断定に近い確からしさをもって成傷物体と推定し得る旨述べているところである。

(六)  鑑定人三上芳雄(川崎医科大学法医学教室教授)は、前記鑑定書・意見書等及び旧型ガス筒・新型ガス筒・模擬筒並びに東山薫の頭蓋骨・頭皮などを資料として鑑定をなして作成した昭和五七年一月六日付鑑定書、当庁民事部が実施した右三上芳雄に対する証人(尋問)調書謄本(前記事件第二七回及び第二八回各口頭弁論期日)等(以下三上鑑定書等と略称する)において、本件頭皮における挫裂創は不整紡錘形をなし、頭蓋骨における陥凹骨折は不整楕円形状であり、その形状は類似性があること、頭部に作用面の小さな鈍体が強く作用すると大概頭蓋骨に成傷器類似の陥凹骨折を惹起するものであるから、本件陥凹骨折を惹起した作用成傷器は右陥凹骨折の形状からみて、表面が鈍隆する硬い楕円形様の鈍体と思考されること、本件陥凹骨折は上下にほぼ楕円形様の骨折であり、上下に約五・二糎・左右に(もっとも幅のひろい部分で)約三・五糎を算し、この頭蓋穹窿部の陥凹骨折に一致して頭蓋内腔にほぼ同形・同大の正鋭な骨折縁を有する頭蓋骨内板の骨折の突隆(上下に約五・五糎・左右に約四糎)を伴い、また骨折の形状が上端は下端に比して幅広く、下端は不整に凸隆状に浮き上り、側面の前後縁は弱弧状を呈して鈍、小凸凹を存するも前縁の凸凹はやや著明であり、又陥凹骨折が下端に向って次第に浅くなり、下段では浮き上り、同部の骨質が約〇・五糎前後(なお陥凹骨折部の骨質は極めて薄く約〇・一五糎乃至〇・二糎で、明るいところではすけて見える。)であるのにもかかわらず、同骨折部の外板および内板には(別図(2)のl点及びj点に端を発する)下方に向かう幅約〇・二糎前後の二条の開離骨(そのうち一条は頭蓋内において中頭蓋窩に長さ約七糎の骨折を伴う)を存する点などを考察すると、上下径約五・二糎・左右径約三・五糎大の楕円形様の表面鈍稜状の硬い鈍体が右頭頂部の陥凹骨折部の前縁に当る部分、特に前上縁を強く一回打撃したものと考えられること、本件鑑定に際し、ガス銃により模擬筒の発射実験をこころみたものであるが、ガス筒発射器(ガス銃)の銃身内腔は腔綫がなく滑らかで、銃身には照星もないため、射手は射撃台に腕を固定して標的である注射で死亡せしめた犬の側頭部に、一〇米の距離から一八発発射したが、いずれも犬自体にも命中せず、五米の距離から発射した一〇発のうち三発がその顎・眼・頭部にそれぞれ命中したのみであり、頭部に命中したものはほぼ上下に斜めの状態で当ったものと認められるが所期の結果を得られず不成功に終ったため、ダンボール製標的を使用して五米の距離からこれに対して同様二発を発射したところ、一発は斜め横の状態で、一発は横(わずかに頭部を前方に向ける)の状態で当り、いずれも頭部からダンボールを抜け、突入頭部前端部分は深く、後端部分は末端に至るにしたがって次第に浅くなり後端は浮き上る傷痕をダンボールに残したこと、挫裂創に囲まれた頭皮の表面には特別の損傷の存在しない点からすれば、作用した鈍稜体の表面には特別の突隆物はなかったものと考えられること、陥凹骨折の状態からみれば、成傷器は前上方に向けて右頭頂部に対して浅い角度で斜めに、陥凹骨折の前上部にその頭部を強く衝突したものと思考されること、陥凹骨折の性状からすると、長さ約二〇糎・直径約三・五糎の硬質の円筒で先端が円型の環状となっている旧型ガス筒でも、長さ一三・三糎・直径二・九六糎の硬質の円筒で先端に半円状の表面なめらかな硬質のプラスチックが付着している新型ガス筒でも、その先端部のみによる頭蓋骨の陥凹骨折の形成は無理であり、陥凹骨折の底部の陥凹は先端が環状となっている旧型ガス筒では形成不可能と思考されること、石塊を成傷器とした場合は、例えば丸味のある石塊であれば、頭蓋穹窿部に衝突面とほぼ同形類似の骨折を形成させることが多いが、頭皮には右骨折と類似しない挫裂創を形成させるにとどまる場合がほとんどであるところ、本件の場合、陥凹骨折と頭皮の挫裂創は前述の如く類似性があるので、本件損傷は石塊によることは無理と思われること等を前提として結局本件損傷は、その損傷部位に鈍縁の楕円形状の硬い鈍体が衝突したものと認められるところ、本件陥凹骨折の下端に随伴骨折と認められる二条の線状骨折を伴い、内一条は頭蓋底の右中頭蓋窩において上下に長さ約七糎の線状骨折を連続していることから、前記楕円形状の鈍体は更に下方に上下に長い鈍縁状の硬い鈍体で、陥凹骨折の下端部にも強く作用したと思われ、陥凹骨折の前縁上端部が特に深く陥凹開離している点からすれば、右の上下に長い鈍縁状の鈍体物の先端部が、陥凹骨折の前縁上端部にわたり強く作用したものと考えられること、右の上下に長い鈍縁状の硬い鈍体としては、陥凹骨折の性状ならびに模擬筒の発射実験の結果から、新型ガス筒が考えられ、(その作用方向についての意見は明白ではないがその証言内容に照せば)後方から前上方にむけて、右頭頂部に対して、尾部を軽く跳ねあげた横斜めの姿勢をもって、その先端部が陥凹骨折部の前上縁を特に強く打撲する状態で、衝突した公算が大きいと思考される旨述べているところである。

(七)  以上みると、本件損傷のうちの頭蓋穹窿部の骨折について、別図(2)のm点を中心とする亀裂骨折は外力が直接作用して形成された直接屈曲骨折(直接骨折)であることについては争いがないものの、その周縁の楕円形をなす骨折については、これを直接屈曲骨折(直接骨折)として、これに相応して頭皮の上(前)部の創・下(後)部の創の発生原因を説明し、それらにより作用した成傷物体を新型ガス筒又は模擬筒と推定する木村鑑定書等・錫谷鑑定書等・三上鑑定書等と、これを間接屈曲骨折(間接骨折)と考え、それに相応して頭皮の上(前)部の創・下(後)部の創の発生原因を説明し、これを前提として成傷物体を複数の稜角を有する石塊等である可能性があるとする松倉意見等・齊藤鑑定とにわかれているところであり、結局は本件陥凹骨折(右m点を中心とする亀裂骨折部分は除く)を直接屈曲骨折(直接骨折)とするか、間接屈曲骨折(間接骨折)とするかの、もっとも基本的なところにおいて対立し、以後の相違を生じているのである。

なお、右松倉意見等・齊藤鑑定は、東山薫の頭蓋骨・頭皮を直接の資料としていないことは、その記載から見ても明らかであるが、前記(鑑定人)錫谷徹に対する証人尋問調書によれば、鑑定人木村康作成の前記鑑定書の解剖所見は、用語に多少の問題はあるものの、精細で、添付写真も鮮明なものであるので、右の現物を直接見なくても判断に影響はないとされているところであるから、これをもって右の如く対立する見解の当否を決することはできない。

とすれば、骨折の性質の判定・評価という基本的ともいうべき点について対立している右各見解の当否を、その各鑑定・意見の内容の比較・検討からただちに判断することは極めて困難なところである。

ただ、松倉意見等は、その全体に徴すると、成傷物体は後上方から作用したものと推測されるところであるから、松倉意見等・齊藤鑑定は、その内容をほぼ同一にするものではあるが、成傷物体を新型ガス筒又は模擬筒とする木村鑑定等・錫谷鑑定等・三上鑑定等は、たちいってみると、その内容に相違が存するところである。その二、三の例をあげると、前記の様に、直接屈曲骨折とする範囲について、木村鑑定等は、陥凹骨折縁の上(前)縁(別図(2)のi・n・jの各点を結ぶ骨折縁)・下(後)縁(同i・k・o・q・l・jの各点を結ぶ骨折縁)ともに直接屈曲骨折(直接骨折)であり、右の上(前)縁の上部に存する骨折線(別図(2)のt・v・wの各点を結ぶ線)は間接骨折、陥凹骨折縁の上部(別図(2)のi点付近)から上後方に向かう骨折線と同下部(別図(2)のj点)から前下方に向かう骨折線は随伴骨折とし、錫谷鑑定等は、陥凹骨折縁の上(前)縁及び下(後)縁の別図(2)のk・qの各点を結ぶ骨折縁部分並びに上(前)縁の外に存する骨折線はいずれも直接屈曲骨折、下(後)縁の別図(2)のq・l・jの各点を結ぶ部分は間接的屈曲骨折、別図(2)のv点からw点に流れる骨折線は随伴骨折、別図(2)のi点付近から後上方に向かう骨折線及び同j点から前下方に向かう骨折線は破裂骨折とし、三上鑑定等はこれらの区別を具体的には明白にしていない。そして、木村鑑定書等は、頭蓋穹窿部に対し、四糎×四糎(一六平方糎)以下の攻撃面を持つ物体が作用した時は、かかる成傷物体の形状に即した骨折を生じ、従ってかかる面積の陥凹骨折が存する場合にはこれにより成傷物体を推定することが可能であることは法医学界の定説であることを前提とし、錫谷鑑定書等は、かかる定説を否定しているところである。又成傷物体の作用方向等についても、木村鑑定書等は、矢状面に対し約三〇度の右後下方から左前上方に向かい頭蓋穹窿面に対して約四五度の角度で衝突・嵌入したものと推断し、錫谷鑑定書等は矢状面に対し約六〇度・水平面に対し約一五度の右後上方から左前下方に向かい頭蓋穹窿面に対して垂直又はほぼ垂直の角度で衝突・嵌入したものと推測し、三上鑑定書等も(必らずしも明白ではないが同人の証言に照せば)又右後下方から左前上方に向けて衝突したものと推測しているものであるが、右木村鑑定書等及び錫谷鑑定書等は新型ガス筒又は模擬筒は、そのプラスチック製半球状頭部を先端として筒軸方向に飛来・衝突したものと考え、三上鑑定書等は筒軸を横斜めにした状態で衝突したものとしているところである。更に、又頭皮の上(前)部の創について、木村鑑定書等は陥凹骨折の上(前)縁が内部から頭皮に嵌入した(一種の)刺創と推測し、錫谷鑑定書等は成傷物体の衝突・嵌入により伸展性の限界を超えて離断した典型的な裂創と判断し、三上鑑定書等はこれの形成原因を明らかにしていない。このように、発生機転や作用方法・態様について種々の相違があり、いずれをもって適切・妥当とするか、右各見解の内にあってもなお問題が存するところである。

とすると、右法医鑑定等の結果によれば、わずかに、成傷物体が東山薫の頭部に対し(換言すれば矢状面に対し)、少なくとも右後方から飛来・衝突したことについてのみ一致しているにとどまり、その成傷物体については、一応新型ガス筒又は模擬筒か、複数の稜角や突出部などを有する(例えば砕石の様な)石塊等であるかにその範囲を絞られはしたものの、現在存する法医学の鑑定・意見等によって、ただちにそのうちのいずれであるかを決定することは困難といわざるを得ない。

四  そこで、右の様に対立する見解を踏まえつつ、右法医鑑定・意見等の結果によって絞られた石塊及び新型ガス筒(M三〇P型・M三〇S型)又は模擬筒(M三〇型)による本件損傷の発生の可能性について検討してみることとする。

(一)  鑑定人磯部孝(中部工業大学教授)作成の昭和五七年二月一六日付鑑定書及び右磯部孝に対する証人尋問調書(以下磯部鑑定書等と略称する)、鑑定人久保田光雅・同上山勝(警察庁科学警察研究所技官)作成の昭和五七年一月二〇日付鑑定書及び右久保田光雅・上山勝に対する証人尋問調書(以下久保田・上山鑑定書等と略称する)によれば、

(1) 新型ガス筒及び模擬筒の、その薬莱部分を除いた飛翔体部分は、平均して次の通りである。

種類

重量(瓦)

全長(糎)

直径(糎)

新型ガス筒M三〇P型

九六・三四

一五・七八

二・九五

新型ガス筒M三〇S型

九二・三三

一五・七三

二・九五

模擬筒M三〇型

八〇・〇九

一五・八〇

三・〇〇

そして、その初速は、平均して、新型ガス筒(M三〇P型・M三〇S型)が秒速八三米、模擬筒(M三〇型)が九〇米と認められる。

右の様な新型ガス筒を木村鑑定書等の如く対象表面に対し約四五度の角度で(水平面に対しては約三〇度として)、下方から衝突せしめる様にした場合の距離、速度(秒速)、ポテンシャルエネルギー、衝撃加速度(骨との衝撃持続時間を一律に10msと仮定した、以下同じ)の関係は、

飛翔距離

(米)

到達時の速度

(m/s)

ポテンシャルエネルギー

(J)

衝撃加速度

(G)

一〇

七四

二五七

一〇七〇

二〇

六五

一九九

九四〇

三〇

五八

一五八

八四〇

四〇

五一

一二二

七四〇

五〇

四四

九一

四三〇

となり、

同じく錫谷鑑定書等の如く、水平面に対し一五度の角度で上方から飛来し対象表面に対し約九〇度の角度で衝突せしめる様にした場合の距離、速度(秒速)、ポテンシャルエネルギー、衝撃加速度の関係は、

飛翔距離

(米)

到達時の速度

(m/s)

ポテンシャルエネルギー

(J)

衝撃加速度

(G)

一〇

七五

二六四

一五三〇

二〇

六七

二一一

一三七〇

三〇

六一

一七五

一二四〇

四〇

五五

一四二

一一二〇

五〇

四九

一一三

一〇〇〇

六〇

四四

九一

九〇〇

七〇

四〇

七五

八二〇

となる。

(2) そして、石塊についてみると、一〇〇瓦乃至三二〇瓦の自然石及び砕石を通常人に投擲せしめた結果によれば、重量の増加に従い初速は小さくなるものの、それは微小なもので相関を云々できるほど顕著ではなく、平均すると、その初速は秒速二四米と認められる。

そして、水平面におけるその各距離ごとの到達点での速度(秒速)、ポテンシャルエネルギー、衝撃加速度の関係(重量は二〇〇瓦とする、以下同じ)は、

到達距離

(米)

到達点での速度

(m/s)

ポテンシャルエネルギー

(J)

衝撃加速度

(G)

一〇

二三

五四

四八〇

二〇

二三

五二

四六〇

三〇

二二

四八

四五〇

四〇

二二

四六

四四〇

五〇

二一

四五

四三〇

となり、

前記の様に(水平面に対し約三〇度)対象表面に対し約四五度の角度で下方から衝突せしめる様にした場合の距離、速度(秒速)、ポテンシャルエネルギー、衝撃加速度の関係は、

到達距離

(米)

到達時の速度

(m/s)

ポテンシャルエネルギー

(J)

衝撃加速度

(G)

二二・四

五〇

三二〇

一〇

二〇・九

四四

三〇〇

一五

一八・六

三五

二七〇

二〇

一五・六

二四

二二〇

となり、

又水平面に対し一五度の角度で上方から対象表面に対し約九〇度の角度で衝突せしめるようにした場合の距離、速度(秒速)、ポテンシャルエネルギー、衝撃加速度の関係は、

到達距離

(米)

到達点での速度

(m/s)

ポテンシャルエネルギー

(J)

衝撃加速度

(G)

一〇

二三・六

五六

四八〇

二〇

二三・二

五四

四七〇

三〇

二一・二

四五

四三〇

となることが、それぞれ認められる。

(二)  そもそも頭蓋骨、特に頭皮を被った頭部に、いかなる程度の外力が作用した場合、頭皮が裂けるか、又いかなる程度のいかなる態様の骨折を生ずるかについては、前記の法医鑑定・意見等において説明されている様に、実験設備により設定せられた特殊な条件下で試みられた実験結果があるのみで、その必要はあるとされつつも、いまだ一般的基準となり得るものも、実験例の集積もないところであり、しかも右の様な特殊な条件下での実験例においても、基本的な検討方法の差異により、その結果を異にしている。即ち、千葉県警察本部警備部警備課長岩井昭二より豊嶋秀直検事に送付された、同課司法警察員遠藤英男作成の昭和五三年三月一八日付「衝撃により頭蓋骨陥凹骨折の起きる可能性について」と題する書面には、右作成者より見解を求められた、中央大学理工学部教授(東京大学名誉教授)林毅の、仮りに二六〇瓦程度の質量の物が、厚さ〇・三糎の側頭部に衝突し、長径五糎・短径四糎の陥凹骨折を起したとすれば、その重力の加速度(衝撃加速度)は一一一Gとなり得る旨の意見が記載されており、それに添付されている佐野圭司他四名の「衝撃による脳損傷の医学と力学」(自動車技術二二巻七号・人間工学特集(八))に紹介されたところによれば、衝撃加速度が一〇〇G迄の範囲では頭皮がクッションになっているが、それを超えると頭皮は裂けて頭蓋骨のひずみが発生する可能性があるとされており、鑑定人木村康作成の昭和五二年六月二〇日付豊嶋検事宛書簡添付の川瀬幹雄「骨折と外力に関する実験的研究」(日本法医学雑誌一九巻四号)においては、ポテンシャルエネルギーについて、磯部鑑定書等の計算方式(質量M・速度Vとし、1/2×M×V2とする)と異なる計算方式(1/2×M/9.8×V2とする)に従い、重量一、一〇〇瓦、速度(秒速)三・八三米の実験事例において、裸の頭頂骨片に陥凹骨折を生ぜしめる限界のポテンシャルエネルギーを八・〇九Jとしており、これを磯部鑑定書等の方式に従い計算すると八〇J程度となるところである。しかしながら、右によれば、骨折形成の成因は単にポテンシャルエネルギーの数値のみによってみるべきではなく、衝撃加速度が高い場合にはポテンシャルエネルギーの値が低くとも骨折を生じうるということがうかがわれ、従って、前記磯部鑑定書等の数値に徴すれば、主として石塊においては、ポテンシャルエネルギーの点からすると、骨折を形成する可能性は乏しいものの、衝撃加速度の点からすれば十分骨折を形成し得る結果となり、前述の様にポテンシャルエネルギーの面から検討するか、衝撃加速度の面から検討するかの基本的な立場の相違により、判断に差異を生ずることとなるものである。

ただ、その様な問題があるにせよ、右磯部鑑定書等の結果に徴すれば、その数値の限りにおいては、本件損傷は、新型ガス筒又は模擬筒により形成された可能性がより強いものの、石塊により形成された可能性も又否定し得ないものということができる。なお、本件損傷を新型ガス筒又は模擬筒により形成されたとする木村鑑定書等・錫谷鑑定書等が、本件の陥凹骨折は直接屈曲骨折(直接骨折)と認められるので、その様な骨折の形状等に適合する形態の石塊の存在率は乏しいとしながらも、「投石により本件程度の損傷を発生せしめることは可能ではある」と論じていることも、又右の石塊による可能性の裏付となり得るところである。

(三)  そこで、すすんで、当時の状況等に照らし、石塊により本件損傷が形成せられる可能性について検討してみることとする。

まず東山薫が本件損傷を受けたのは、前記斎藤晴方出入口付近で、国道に向いてスクラムを組んでいた午前一一時二八、九分頃と認められるところであり、その当時、斉藤晴方からみて、右手(横宮十字路方向)には、第四インター派集団らが蝟集し、左手(第五ゲート方向)の警察部隊に対して、投石がなされており、右第四インター派集団らが、当日朝倉地区にある団結小屋等から小型貨物自動車に積載して運搬して来た投擲用の石は砕石で、集団の者にこれを携行せしめたのみならず、国道上にもばらまき投擲に供せしめたことは前述の通りであり、本件発生当時斉藤晴方前で投擲された石も砕石であったことが認められるところであるから、この点からすれば松倉意見書等・齊藤鑑定にいう複数の稜角を有する石塊により東山薫が本件損傷を受け得る状況にあったものということができる。

ただ、前記法医鑑定・意見等によれば、少なくとも成傷物体は、その角度はさておくとしても、東山薫の後方から飛来・作用したものであることは一致しているところであり、前記松倉意見書等・齊藤鑑定によれば成傷物体たる石塊等は、東山薫の頭に対し(矢状面に対し)やや後方の上方からやや前方の下の方に向かって飛来・打撃したものとされているものであるから、本件損傷発生当時の東山薫の頭の向き(矢状面の向き)について考察しなければならない。即ち、左手国道上からも投石がなされていたとの証拠のない本件においては、その投石は前述の右手国道上の第四インター派集団らによるものとみざるを得ないところであり、かかる右手国道上からの投石により東山薫が、その右頭頂部に本件損傷を受けたとするならば、その位置・方向を考えると、東山薫がその顔を左手国道上の方向に向けていたか、左手の生垣方向を向いていたか、あるいは浅く左斜め後方を振り向いていたか、等の場合にその範囲が限られ、右手国道上の方向や正面を向いていた場合ではないということになるのである。

そうすると、本件損傷を受けた当時、東山薫がどちらに顔を向けていたかは、前述したとおり必ずしも明確ではないが、前記森山太一が供述し、同人及び大橋正明が前記検察官豊嶋秀直作成の昭和五二年六月二一日付実況見分調書記載の如く、同月八日の実況見分の際に説明し、写真撮影された様に、左斜め後方を振り向いている状態などがもっともこれに適合するところであり、かかる限りにおいては、東山薫が石塊により本件損傷を受けた可能性を否定することはできない。

(四)  次に、当時の状況等に照らし、新型ガス筒又は模擬筒によって、本件損傷が形成せられた可能性について検討することとする。

東山薫が本件損傷を受けた午前一一時二八、九分頃、前記斉藤晴方出入口付近前国道上においては、火炎びんや石塊等を投擲するなどの攻撃を加えてくる第四インター派集団らに対し、警察部隊から制圧・規制のため、その種類はさておき、ガス筒が発射されていたことは前述の通りであるが、本件損傷の成傷物体については、法医鑑定・意見等によれば、石塊等か新型ガス筒又は模擬筒に限定され、旧型ガス筒による発生の可能性は否定されているので、以下新型ガス筒及び模擬筒についてのみこれをみることとする。

(1) まず、新型ガス筒又は模擬筒の発射・使用状況についてみると、関係証拠に徴すれば、本件当日である昭和五二年五月八日の午前一一時四分頃から一一時四〇分頃迄の間、前記国道二九六号線道路を中心として発生した兇器準備集合・火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反・公務執行妨害・傷害等事犯の規制・検挙のため出動し、これに直接関与した警察部隊は、前述の通り千葉県警察本部警備部第二機動隊、同第一機動隊第三中隊第一小隊、埼玉県警察本部警備部機動隊、近畿管区機動隊満原大隊第二中隊・第三中隊であるが、埼玉県警察本部警備部機動隊及び近畿管区機動隊満原大隊第二中隊・第三中隊が携行し使用したガス筒発射器は、いずれも旧型と呼ばれるⅡ型ガス筒発射器で、従って使用されたガス筒も旧型ガス筒と呼ばれるものであり、当時新型ガス筒と呼ばれるM三〇P型・M三〇S型や模擬筒と呼ばれるM三〇型を発射できるⅢ型ガス筒発射器の配付を受けていたのは、千葉県警察本部警備部第一機動隊と同第二機動隊であったことが認められる。

そこで、まず右千葉県警察本部警備部第一機動隊に配付されていたⅢ型ガス筒発射器の使用状況についてみるに、これを取扱った同機動隊装備係員らの供述を含む関係証拠に徴すると、右第一機動隊は昭和五二年五月二日、千葉県警察本部総務部装備課からⅢ型ガス筒発射器二丁及び模擬筒(右装備課では訓練筒と呼んでいる)三六発、そして各三個の弾倉の入ったショルダーバッグ二個を受領し、五月六日の出動にあたっては、その発射音により対象を威嚇・規制することが可能との判断から、これをⅡ型ガス筒発射器一八丁などと共に資材車(幌付小型貨物自動車)に積載して同隊装備係員らが携行し、本件当日である五月八日の午前一一時一四分頃、右第一機動隊第三中隊第一小隊が、千葉県警察本部警備部第二機動隊の応援のため、Ⅱ型ガス筒発射器一二丁を携行して前記大竹石油千代田給油所前付近に赴いた際、右装備係員三名も右第一小隊に対する旧型ガス筒補給のためにこれに追尾することとなったが、状況に応じⅢ型ガス筒発射器を前記の様な目的で使用することも考え、これと模擬筒を積載したまま前記資材車を運転して第五ゲート前に赴き、同所で右第一小隊員等に旧型ガス筒を補給した後、右装備係員らのうち二名は、それぞれⅢ型ガス筒発射器を各一丁宛と右模擬筒六発を詰めた弾倉一個を含む弾倉入りショルダーバック二個を持って国道二九六号線を徒歩で東にすすみ、午前一一時五六分頃、前記農協千代田支所に通ずる脇道のある付近迄行ったところ、そこに前記山形基夫警備部参事官使用の右第一機動隊指揮官車が停車していたので、その後部のドアをあけ、右Ⅲ型ガス筒発射器一丁と弾倉入りショルダーバック一個を積み込み、一人が他の一丁に模擬筒六発が詰めてある弾倉を装填して持ち、他の一人は残への弾倉の入ったショルダーバックを持って、そこから再び第五ゲート前付近にもどり、同所で農協千代田支所脇広場にいる中核派集団らの警戒にあたっていたが、その頃、千葉県警察本部警備部第二機動隊から新型ガス筒二箱合計六〇発の補給を受けたので、同所付近に駐車していた放水車の中で、装填してあった弾倉から模擬筒を取り出して新型ガス筒を詰めたもののこれを使用する機会はなく、それらの間に、前記指揮官車が他所へ移動してしまい、結局、その指揮官車に積み込んでおいたⅢ型ガス筒発射器と弾倉入りショルダーバックを降ろしたのは、その後同車と逢った午後〇時四〇分頃であったことが、うかがわれる。(なお、右第一機動隊装備係員らは、同日午後二時頃、第五ゲート前付近路上において、道路上にバリケードを作り警察部隊に対して激しく火炎びんや石塊を投擲して来た赤色ヘルメットの集団の規制・検挙のために、右第一機動隊長の指示により、Ⅲ型ガス筒発射器二丁で模擬筒を合計一一発発射・使用したことが証拠上認められる。)

次に、千葉県警察本部警備部第二機動隊に配付されていたⅢ型ガス筒発射器についてみると、これを取扱ったガス筒発射器要員を含む関係者らの供述並びに関係各証拠に徴してみる限りにおいては、右第二機動隊は、昭和五二年五月五日、千葉県警察本部総務部装備課からⅢ型ガス筒発射器一丁及び操作訓練用の筒(薬莱が付いておらず発射し得ないもの)九発並びに新型ガス筒二〇〇発・弾倉三個入りショルダーバック一個を受領したが、同機動隊においては、これをガス筒発射器要員の一人に担当・使用せしめることとし、翌六日の出動に際して、弾倉三個入りショルダーバック一個及び新型ガス筒一八発と共に、右担当要員に携行せしめ、同人は同日午前五時一〇分頃、通称番神三差路付近において、右Ⅲ型ガス筒発射器で、新型ガス筒七発乃至八発を発射使用し、本件当日である五月八日にも、それぞれ六発の新型ガス筒を詰めた弾倉三個の入ったショルダーバックを持って出動したが、前述の様に前記大竹石油千代田給油所東側杉林前国道二九六号線道路上で、午前一一時四分頃から、右第二機動隊が第四インター派集団から攻撃を受け、これを制圧・規制しようとした際、右国道上の放水車の左側で、右弾倉一個を装填したⅢ型ガス筒発射器を上方約二〇度の角度に構えて、右第四インター派集団に向けて第一発目を発射し、続いて第二発目を発射しようとしたところ、本来ならば、一度遊底を操作して銃身に最初のガス筒を込めておけば、以後は発射の都度遊底が往復して薬莱が排出され、弾倉バネの作用により次のガス筒が銃身に込められ、単に引き金を引くのみで弾倉に詰められたガス筒を連続して発射し得る構造となっているのにもかかわらず、第二発目が所定の様に銃身におさまらないために遊底が戻らず発射することが出来ない状態となってしまい、そのため発射の都度弾倉の底を叩いたり遊底を操作するなどして、ガス筒を銃身におさめて発射するという動作を繰返し、五発目まで発射した直後、「部隊前へ」の命令が出たため、右第二機動隊の後部に位置して右国道を横宮十字路方向に向かって前進を始め、途中前記千代田観光付近では、第四インター派集団から投げられた火炎びんが足元で破裂炎上したため、五、六米程後退してそれを避けたりしながら、さらに前進を続け、前記芝山タクシー先付近まで進んだところ、右第二機動隊が第四インター派集団らから火炎びんや石塊等の投擲などの激しい攻撃を受けて前進を妨げられる事態となったので、ガス筒を発射してこれを制圧すべく、二、三の隊員をかきわけ前に出ようとしたところで、ガス筒発射器の遊底が途中迄しか戻っていないのに気付き、あわてて手で遊底を操作しようとしたものの遊底も動かなかったため、やむなく、他の隊員も退避していた右国道左側の、前記宮野湛方敷地西側の竹林等に接し、前記斉藤晴方出入口西端からは約一七・六米のところにその東端がある空地の中の草むらに退避し、そこで種々操作した末弾倉をはずしてみたところ、最後の六発目のガス筒が斜めに銃身に入っていたので、これを取り出してあらためて弾倉に詰め直したうえ、その弾倉を又ガス筒発射器に装填し、再び国道に戻ったが、既に部隊は前進してしまい、ガス筒を発射する機会もなかったので、そのまま部隊を追って横宮十字路方向に向かい、途中、前記宮野湛方敷地と横宮十字路北西角にある伊藤酒店敷地との間にある畑に入り、右横宮十字路から北方に向かう道路に出て、さらに北方の国鉄専用道路との十字路付近まで行き、同所で集結して人員・装備の点検を受けた際、所属小隊の伝令に対し発射・使用したガス筒数を五発と報告し、所属分隊長からの「六連発式のものであるのに発射数が少ないではないか」との問に対し、「ガス筒が銃身にひっかかったので、直していた」旨答え、その際、右分隊長は装填されている弾倉にガス筒が一発残っているのを確認しているものであることがうかがえるところであり、また前記放水車の左側で右担当要員が前述の様に弾倉の底を叩いたり遊底を手で操作したりしているのを採証班員が目撃し、さらに前記空地で右担当要員がガス筒発射器の不調を直しているのを同所に退避していた隊員のうち少なくとも三名の者がこれを目撃していることも又認められるところである。(なお、その後右担当要員は右第二機動隊が、第五ゲート前付近に戻った午後〇時二〇分頃、同所で同機動隊の装備係員から新型ガス筒一五発の補給を受けて、そのうちの五発を一発残っていた弾倉に詰め、その余の一〇発を五発宛ズボンの左右のポケットに入れて携帯し、午後一時三〇分頃、第五ゲート前付近において、警察部隊に対し火炎びんや石塊を投擲するなどの攻撃を加えて来た白色ヘルメットの者達を先頭とする集団の制圧・規制のために新型ガス筒一〇発を発射・使用したことが証拠上認められる。)

そして、本件発生当時の前記斉藤晴方前国道二九六号線道路上における警察部隊の状況を撮影した、前記埼玉県警察本部警備部機動隊巡査小原善行撮影のNo.9―17―14・No.9―17―12・No.9―17―13の各写真(五・八空港反対派支援労働者死亡事件写真集その5・写真集(8)野戦病院前の状況No.97・No.99・No.100の各写真)、前同機動隊巡査田辺保広撮影のNo.9―19―13・No.9―19―14・No.9―19―15の各写真(前記No.98・No.101・No.102の各写真)、同機動隊巡査斉藤明彦撮影のNo.9―18―12の写真(前同No.103の写真)、千葉県警察本部警備部第二機動隊巡査鈴木教雄撮影のNo.15―26―15・No.15―26―16・No.15―26―17の各写真(前同No.104・No.105・No.106の各写真)を仔細に検討してみても、Ⅲ型ガス筒発射器を携行し、あるいは発射・使用しているものを発見することは出来なかった。

なお、検察官豊嶋秀直作成の昭和五二年六月二一日付「ガス弾発見場所の特定について」と題する書面等によれば、同検察官作成の同日付実況見分調書記載の実況見分が実施された同月八日に、同検察官は、請求人ら代理人から「ガス弾の発見者がいるので、その発見時の状況を指示・説明させたい」旨の申し出を受け、同日、その発見者という大熊寿平・戸村勝子を立会わせて、その一個は、右斉藤晴方の向い側にある前記宮野湛方敷地内の土蔵と国道沿いの生垣との間にあった旨、他の一個は、横宮十字路北西角にある芝山町大里七七番地戸村勝子方の右十字路から坂志岡方向に通ずる道路に沿った土手とその敷地内のビニールハウスとの間にあった旨の各指示説明を受け、同月一一日請求人ら代理人から使用済の新型ガス筒二個の任意提出を受けていることが認められ、大熊寿平の検察官に対する昭和五二年六月一四日付供述調書によれば、右使用済新型ガス筒二個は、同人が本件の翌日である五月九日、補助者(森山太一に対する証人尋問調書によれば同人とうかがえる)とともに、第五ゲート前付近から横宮十字路方向に向かい国道二九六号線道路伝いにガス筒を捜しつつ歩いていたところ、宮野湛方の前記場所に落ちていた使用済新型ガス筒一個を国道上から見付けてこれを拾得し、同月一四日請求人ら代理人に提出し、さらに、五月一七日、斉藤晴方付近の家をまわってガス筒による被害を尋ね歩いていたところ、前記戸村勝子に被害があった旨聞いたので、同人方を訪れ、同人方の子供から使用済新型ガス筒一個の交付を受け、同日夜同人から前記の様な場所に落ちていた旨の説明を受けたので、同月二〇日これも請求人ら代理人に提出したというのである。しかし、関係各証拠によれば、昭和五二年五月一四日に中山雅樹を中心として、前記大竹石油千代田給油所前付近から前記斉藤晴方前付近にいたるまでの、前記資材置場を含む国道二九六号線道路を中心とする地域で行なわれた遺留品収集作業(前記森山太一もこれに参加している)により収集された物については、同人及び森山太一が同月二六日・二七日に、他の者が他の機会に収集した物と共に整理したうえ、同日三〇日に請求人ら代理人から検察官に任意提出されているのにもかかわらず、何故に前記使用済新型ガス筒二個だけが右の如く同月一四日と二〇日に請求人ら代理人に提出されながら前述の様に六月八日になってその存在を明らかにされ、同月一一日に任意提出されることになったか疑問があるのみならず、前記戸村勝子方の使用済新型ガス筒が落ちていたという場所は、横宮十字路から南方に向かったところであり、右十字路から南方に向かった埼玉県警察本部機動隊はⅢ型ガス筒発射器を携行していなかったことは前述の通りであり、またその位置からみて前記斉藤晴方出入口付近から発射されたものが飛来し落下することはほとんど不可能であることや、前述の様に新型ガス筒は、五月六日にも番神三差路付近で、五月八日午後にも第五ゲート前付近で、それぞれ発射・使用されていること等を併せ考えると、右二個の使用済新型ガス筒が右の各場所に落ちていたものとは容易に認め難く、これをもって、本件当時、前記斉藤晴方前付近国道上において、新型ガス筒が発射・使用されたとする資料とはなし得ないところである。そうすると、右Ⅲ型ガス筒発射器を携行したもののうち、千葉県警察本部警備部第一機動隊の装備係員は、五月八日午前一一時四分頃から一一時四〇分頃までの前記規制・検挙には直接関与することも前記斉藤晴方前付近に赴くこともなく、その間に携行していた模擬筒を発射・使用したこともないものであり、同第二機動隊の担当要員は、前記規制・検挙に直接加わり、前記大竹石油千代田給油所東側杉林前国道上で新型ガス筒五発を発射し、その後前記斉藤晴方前付近に赴き更にその出入口前国道を通っているものではあるが、右斉藤晴方前付近においては新型ガス筒を発射・使用していないものとうかがわれるところである。

しかし、右第二機動隊の担当要員が新型ガス筒を発射した際、その個々について目撃・確認している者はなく、その携行したガス筒発射器又は弾倉の不調は、五月六日に番神三差路付近で発射した際や、本件当日である五月八日の午後第五ゲート前付近で発射した際などにも生じていたと認めるに足る証拠はないことを考えると、右担当要員を含む関係者の供述等に疑問の余地がないわけではないので更に本件損傷を受けた当時の東山薫の姿勢や新型ガス筒の飛翔態様等についても、検討をすすめることとする。

(2) 前記木村鑑定書等・錫谷鑑定書等は、いずれも、東山薫の右頭頂部に存する本件損傷の成傷物体は、新型ガス筒又は模擬筒である可能性が強いとしているものであるが、その作用方向については前述の如く、木村鑑定書等は、これが矢状面に対し約三〇度の右後下から左前上方に向かい頭蓋穹窿面に対し四五度の角度で衝突・嵌入したものと推測し、錫谷鑑定書等は、これが矢状面に対し約六〇度・水平面に対して約一五度の右後上方から左前下方に向かい頭蓋穹窿面に対し垂直又はほぼ垂直の角度で衝突・嵌入したものと推断し、三上鑑定書等は、明確ではないがその証言内容に照らせば右後下から左前上方に向けて衝突したと推測しているものと認められるところであるから、結局、下方からか、上方からか、またその接触作用角度の点を除けば、いずれも前記成傷物体と思われる新型ガス筒又は模擬筒が、右後方から東山薫の右頭頂部に作用し本件損傷を発生せしめたものとしている(この点は成傷物体が石塊等である可能性があるとする松倉意見書等・齊藤鑑定も同一である)。とすれば、石塊等による可能性について検討したと同様に、本件損傷の発生当時の東山薫の頭の向き(矢状面の向き)を検討しなければならない。即ち、本件発生時と推測される昭和五二年五月八日の午前一一時二八、九分頃、前記斉藤晴方出入口で、国道に向かってスクラムを組んでいた東山薫からみて、国道右手の第四インター派集団らの方向・右斉藤晴方中庭の方向・右斉藤晴方出入口から国道をへだてた向い側の東山薫等のほぼ正面にあたる前記宮野湛方敷地方向等から、その当時ガス筒が発射されたと窺うに足りる証拠のない本件にあっては、ガス筒は、国道左手にいた警察部隊から発射されたものとみざるを得ないところである。そうすると、東山薫がその右後方から作用した新型ガス筒又は模擬筒により本件損傷を受けたとするならば、同人や右警察部隊の各位置を考えると、同人が右スクラムを解いて中庭の方に体のむきを変え、顔も同様国道とほぼ反対側に向けている状態か、あるいは左向きに両肩の線が国道に直角になる程左肩を引いたうえ更に首を九〇度程左にまわした状態、又は右向きに両肩の線が国道に直角かそれに近い程に深く右肩を引いたうえ更に首を九〇度かそれに近い程度に右にまわした状態などの場合が想定されるところである。ところが、本件損傷を受けた当時東山薫がどちらに顔を向けていたか、即ち頭の状態がどの様になっていたかが、必ずしも明確でないことは前述の通りではあるが、右の点に関する関係各証拠のいずれにも、つまり、ともにスクラムを組んでいたとされる大橋正明・森山太一・吉田孝信・斉藤伸子や当時国道上にいた第四インンター派集団の一員である原田節の供述においても、また前記中山雅樹作成の昭和五二年五月二七日付写真撮影報告書添付写真(三本目No.2乃至No.5各写真)・検察官豊嶋秀直作成の昭和五二年六月二一日付実況見分調書における右大橋正明・森山太一の説明並びに添付写真集(二)No.③乃至No.⑧・乃至写真においても、その各内容を詳細に検討したものの、当時東山薫の顔の向き、換言すれば頭の向きが、前記の想定される状態になっていたことを認めるに足る部分はなく、特に右森山太一が供述し、同人及び大橋正明が前記実況見分の際に説明し、写真撮影された様な、東山薫が本件損傷を受けた際にスクラムを組んだまま左斜め後方を振り向いた状態では、前述の様に国道左手にいた警察部隊から発射されたガス筒が同人の右後方から右頭頂部に衝突・作用する可能性は到底考えられないものである。とすれば、東山薫が、本件受傷当時、前記斉藤晴方出入口から国道に向かって左手にいる警察部隊が発射したガス筒を(上方からであれ、下方からであれ)その右後方から右頭頂部に受けることが可能な状態にあったと認めるに足る証拠はないといわざるを得ないのである。

(3) そして、更に新型ガス筒及び模擬筒の飛翔態様についてみると、新型と呼ばれるⅢ型ガス筒発射器は(旧型と呼ばれるⅡ型ガス筒発射器と同様)、火薬を爆発させることによって生ずる爆発ガスの力によって銃身からガス筒を発射する機能を有する(そのために、通常ガス銃と呼ばれている)が、その銃身には照準を定めるための照星や照門がないのみならず、銃身の内面はなめらかな滑腔で、発射されるガス筒に旋回運動を生ぜしめる旋条(ライフル)も刻まれていないものであり、またⅢ型ガス筒(M三〇P型、M三〇S型)・模擬筒(M三〇型)の飛翔体部分にも、銃身内での爆発ガスの洩れを防ぐためゴム製の細幅なスカート(羽根又は翼と呼ぶのは誤り)が筒尾に付けられているだけで、飛翔中の姿勢・方向を維持するための矢羽根の様な機能をもつものは何ら備えられていない。そして、前記磯部鑑定書等及び久保田・上山鑑定書等によれば、弾軸又は筒軸の長い物体は、本来その軸を飛翔方向に向けて飛翔するものではなく、軸を横にする等して飛翔するものであるから、その様な物体が旋回運動力を与えられずに発射されると、銃口又は筒口から飛出す際の微細な傾きやこれに続いて噴出される爆発ガスの影響と空気抵抗によって、銃口又は筒口を出た瞬間から頭部を発射方向に維持することが出来ず、左右・上下に激しく振って飛翔することとなり、その弾軸又は筒軸の向きを発射方向に維持しながら飛翔することはあり得ず、新型ガス筒・模擬筒の場合もその発射実験の結果、前記の様にⅢ型ガス筒発射器はガス筒に旋回運動力を与える機構になっていないため、発射された新型ガス筒・模擬筒は、銃口(筒口)を出た瞬間から、その際の微細な傾きや続いて噴出された爆発ガスの影響力と空気抵抗により筒軸を発射方向に維持することができず、頭部を前記の様に激しく左右・上下に振り筒軸を直立させたり、横向きにしたり、あるいは頭部をほぼ逆向きにするなどの回転運動をしながら、またそのために、銃身中心線の延長方向をはずれて蛇行する等して飛翔するものであり、筒軸方向にその頭部を先端にして直線的に飛翔するものではないことが認められる。

そうすると、前記法医鑑定・意見等のうち、木村鑑定書等及び錫谷鑑定書等は、前述の如く、成傷物体がその半球状の頭部を先頭にして、その軸方向に嵌入・作用したことを前提として、頭蓋穹窿部右側における陥凹骨折・頭皮の創傷等の本件損傷の発生機転を説明しているものであるから、これと異なる新型ガス筒・模擬筒の右の様な飛翔態様を考慮すると、その前提において疑問が生ずるものといわざるを得ないところである。又三上鑑定書等が、五米の距離からダンボール製標的に模擬筒を二発発射し、その結果、模擬筒は頭部から右ダンボールを抜け、突入頭部前端部分は深く、後端部分は末端に至るに従い次第に浅くなり、後端は浮き上る傷痕を残しているということのみをもって、距離による変化を問題とすることもなく、新型ガス筒・模擬筒の前述の様な激しい回転運動も考慮に入れずに、新型ガス筒・模擬筒が衝突した際の姿勢を判定したことは、ただちに首肯し得るものではなく、更に前記磯部鑑定書等によれば、右の様な軸の長い円筒形の物体は、前述の様に激しい回転運動をしながら飛翔するものであるため(その向きは別としても)、対象に斜めに衝突するのが普通であり、仮に斜めの状態で先端部分がまず衝突したとすると、それにより、その運動量の一部が対象に移り第一次衝突部位を軸とする回転運動が発生して、その余の部分がいわゆる横倒しの状態で第二次の衝突を起し、その衝撃加速度は二分されるが、そのいずれの衝撃が大きいかは、その軸と対象表面との角度によって左右されるものであり、たまたま筒側が同時に対象表面に衝突したときは、その全面について力の均等な一度の衝撃が与えられるとのことであるところ、新型ガス筒又は模擬筒が尾部を軽く跳ねあげた横斜めの姿勢をもって、その先端部分が陥凹骨折の前縁上端部にあたる状態で衝突したものとする三上鑑定書等は、東山薫の頭蓋穹窿部に衝突した際、筒側も同時に衝突したものとするのか、あるいはまず先端部が衝突し、次いでその部位を軸とする回転運動が発生してその余の部分が続いて衝突したとするものか、明らかではなく、仮に前者とすればかかる時も直接屈曲骨折とするのか、また何故に頭皮や頭蓋骨の作用面全般にほぼ同一の打撃痕を残していないのか、後者とすれば(その筒軸と頭蓋穹窿面とのなす角度によってその程度は左右されるが)第二次衝突部位とされる個所は何処でどの様な程度の損傷を与えたとするのか等の疑問が存するところである。

(4) そうすると、右に述べてきたとおり、昭和五二年五月八日午前一一時四分頃から一一時四〇分頃迄の間の国道二九六号線道路上を中心とする前記規制・検挙に際し、千葉県警察本部警備部第一機動隊装備係員三名は、Ⅲ型ガス筒発射器二丁と模擬筒を携行して第五ゲート前付近迄赴いたものの、規制に直接関与しておらず、これを発射したことはないものと認められ、又同第二機動隊の担当要員はⅢ型ガス筒発射器一丁と新型ガス筒を携行して右規制に加わり、前記大竹石油千代田給油所東側杉林前国道上で五発の新型ガス筒を発射した後、前記斉藤晴方付近に赴きその前を通過したものの、右五発以外には発射していないことが窺えるところであり、右第二機動隊の担当要員の発射場所に疑問があるとしても、東山薫が本件受傷当時、前記斉藤晴方出入口から国道に向かって左手にいた警察部隊から発射された新型ガス筒を右後方からその右頭頂部に受けることが可能な状態にあったと認めるに足る証拠はなく、かつ又本件損傷の成傷物体を新型ガス筒又は模擬筒とする法医鑑定は、いずれもその前提となる新型ガス筒・模擬筒の飛翔態様やその衝突態様等についての配慮を欠く結果となっているか、又は不十分なものにとどまっているのであって、この様な事情に鑑みれば、成傷物体を直ちにそれと認めるには躊躇せざるを得ず、前述の千葉県警察本部警備部第二機動隊の担当要員を含む関係者の供述等に疑問を抱くことが出来ないものではないとしても、本件各証拠からはその供述等の信用性を直ちに否定して、Ⅲ型ガス筒発射器を携行した右担当者が、前記斉藤晴方前付近で新型ガス筒を発射し、これが東山薫の右頭頂部に衝突して同人に本件損傷を発生せしめたと認定することは未だできないところである。

第五結論

以上要するに、東山薫は、昭和五二年五月八日午前一一時二八、九分頃、千葉県山武郡芝山町大里七〇番地斉藤晴方出入口において、右頭頂部挫裂創・頭蓋骨陥凹骨折の損傷を受け、同月一〇日午後一〇時一四分頃、成田市飯田町九〇番地一所在の成田赤十字病院において、右損傷に基づく脳障害(脳挫傷・脳挫滅)により死亡するにいたったものであるが、その成傷物体については、検察官から送付を受けた一件記録及び証拠物並びに当裁判所が蒐集取調べた証拠を仔細に検討した結果、前述した如く、新型ガス筒又は模擬筒の疑いは存するものの、受傷当時の現場の状況や東山薫の位置・姿勢等と符合せず、それとする法医鑑定はそれぞれ内容に相違が存するのみならずガス筒の飛翔態様等についての配慮がなされていないため疑問が残り、また石塊による受傷の可能性も否定し得ないところであって、従ってこれをガス筒と認定できない以上、その余の点を判断するまでもなく、本件各被疑者についてはいずれも犯罪の嫌疑不十分といわざるを得ず、犯罪の「嫌疑がない」との理由で本件を不起訴処分とした検察官の措置は結論において相当であるから、本件各付審判請求はその理由がないことに帰する。

よって刑事訴訟法第二六六条第一号に従い主文の通り決定する。

(裁判長裁判官 篠原昭雄 裁判官 西島幸夫 加藤就一)

〈以下省略〉

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